(127)倭讃が王城を南遷したねらい

126倭讃が王城を南遷したねらい

4世紀末の北東アジア(Wikipedia)

倭讃が『書紀』のオホササギ大王(仁徳)とすると、崩年と没齢がほぼ確定できる第29代ヒロニワ大王(欽明)からさかのぼった在位期間は西暦382年から425年です。『書紀』が伝える没齢110歳が春耕秋収の2倍暦に従っているとすれば、55歳で亡くなったことになります。

オホササギが倭讃だとすると、彼は数え歳12歳で王位に就き、30歳のとき好太王に戦いを挑み、50歳のとき宋に使者を派遣した計算になります。たまたまですが、即位した年齢がちょっと若いとは思うものの、人の一生として妥当なところですし、好太王碑文や『宋書』の記事と大きく矛盾しません。

好太王碑文による限り、高句麗軍の機動力と破壊力は5世紀初頭の北東アジア世界で群を抜いていました。記録に残る「五萬」「三萬」が実数とは思えないにしても、軍制を統治体制の基本にしていました。これに対して百済、新羅の統治層は王侯貴族ですから、とても太刀打ちできなかったでしょう。

倭讃が全羅南道・栄山江流域にあった王城を対馬海峡の南側(筑紫平野)に移したとすれば、それは後燕が滅びた西暦407年の直後だったと考えられます。王城南遷のねらいは、高句麗軍による直接の脅威を回避するためだったのでしょう。さらにいえば、百済國と距離をおくことにしたのかもしれません。

――と、本稿では断定的に書いていますが、すべては根拠レスです。それと当初から筑紫平野に王城(『新唐書』にある「筑紫城」)を構えていたなら話は別ですし、所詮は「たら」「れば」、仮定の上に仮定を積み上げたに過ぎません。ただし筆者にあっては、妄想と理解していながら、次第にリアリティを覚えるようになっているのも事実です。

後燕は華夏に帰順していた鮮卑族慕容氏が337年に建てた燕國(大燕、前燕とも)の流れを組む王国です。慕容垂が384年に燕王を自称し、386年皇帝に即位しました。高句麗・好太王と戦戈を交えたのは第3代昭武帝(慕容盛)と第4代昭文帝(慕容熙)でした。

初代成武帝(慕容垂)、第2代恵愍帝(慕容宝)が北魏との戦いに腐心し、大きな戦果を上げることができなかったことから、昭武帝は南進政策に転換しました。それは高句麗國への侵略戦争を意味しました。このとき倭の海賊(というか水軍)の有用性に着目し、倭國と連携することになったと思われます。

その後燕が滅びたので、倭國は高句麗國を牽制する手立てを失ったわけでした。高句麗にとって後燕の滅亡が体力を回復させる絶好のチャンスだったように、倭國にとっても半島の国際関係から暫時手を引く機会でした。好太王との戦いで大きく傷ついた華夏帝国との交易権を立て直すことが最優先だったのです。

これは663年、白村江会戦で唐・新羅連合軍に大敗を喫したとき、カツラギ王(天智)が筑紫朝倉の橘広庭宮から大和飛鳥の板蓋宮に移動し、次いで近江の大津に移動したのと似ています。倭讃における筑紫城はおそらく朝倉・太宰府の界隈でしょう。数年を経ずして河内に王城を移したことが、イハレヒコやホムダワケの東征譚となったのではないでしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?