(160)僭越なミニ中華世界の構築

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梁の武皇帝(ITW01:中国の歴史ドラマから)

 華夏の文献における「倭」「倭人」「倭國」の条建てを時系列で整理すると、おおむね5世紀の後半から6世紀の初頭にかけて、華夏文献でいうと『宋書』が編まれたころ、倭國の王権は倭人の世界と一線を画したことが分かります。『宋書』を編んだ沈約(441~513)も梁の第4代皇帝蕭繹(元帝)もそれを知っていた、というのが本稿の見立てです。

 そこで、沈約はなぜ題記を「倭國」とし、「倭人」という文言を一度も使わなかったのか、蕭繹は何をもって「倭国は倭人の世界と一線を画した」と知った(察した)のか、を考えてみます。

 蕭繹は「讀書萬巻猶有今日」(万巻の書を読めどもなほ今日あり)の言葉を残したほどの知識人です。歴代王朝の正史は読破していたでしょう。なかでも『宋書』は沈約が亡くなった513年までには成立していました。

 また蕭繹の実父・蕭衍は梁の初代皇帝として「武」(高祖武皇帝)の諡を贈られています。蕭繹は自然に直近の「武」名の皇帝や王の事蹟に目を止めたでしょう。すなわち南斉の武帝(世祖武皇帝:蕭賾、在位482~493)、宋の武帝(高祖武皇帝:劉裕、在位420~422)、そして宋の昇明元年(477)11月に使者を派遣し、その翌年再び使者をして順帝(劉準、在位477~479)に表を奉じた倭武王です。

 教科書日本史は「倭武王=雄略天皇」を定説としていますが、本稿はその説に「?」を付けています。『書紀』歴代大王の在位年表では、第21代ワカタケル大王は西暦479年に死去しています。これに対して『南斉書』は、建元元年(479)に倭王武が表を奉じたことを伝え、『梁書』は武皇帝の天監元年(502)に倭王武を征東大將軍に叙しています。

 これについて教科書日本史は、「雄略天皇がとっくに亡くなっているのを中国は知らず、倭国に断りなく勝手に叙爵したのだろう」というのですが、華夏帝国の情報収集能力を甘く見てはいけません。477年11月の遣使は倭武が王に就いたことを報告するためのもので、宗主(宋皇帝)がそれを認めたので翌年の上表となったと考えるのが自然です。

 ともあれ蕭繹にとって倭武王の遣使と上表は、「現代史」そのものでした。そして倭王武の上表は、「東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國」(東に毛人を征すること五十五國、西に衆夷を服すること六十六國、渡りて海北を平ぐこと九十五國)と記しています。

 さらに倭王武は「王道融泰廓土遐畿」とたたみ掛けます。「我が先祖は東・西・北の異族を討伐し、王道を開いた」と自慢しつつ、「中国の威はさらに遠くに及んでいる」と言っているのです。問題は、何処から見た東・西・北なのか、です。またここでいう「王道」とは誰を主体としているのでしょうか。

 いうまでもなく、その主体は倭國であり倭王です。倭国、倭王は倭讃に始まる頻繁な宋との往来で中華思想を学習し、自らを中心とするミニ中華世界を構築したのです。それは華夏にとって、許しがたい僭越な行為でした。倭國は蛮夷の族ではない、と主張し始めたのですから。

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