(94)転機は楽浪・帯方郡の消滅

094楽浪郡の消滅

高句麗古墳の壁画(SEOULNAVI)

『書紀』に登場する「夏」姓の魁師こそ、帯方・楽浪連合軍の難を逃れて山口県に上陸した「辰王=秦王」の子孫であろう、というのが本稿の推測です。「魏志韓伝」の「辰王」と紛らわしいのでで、ここでは夏王権と表記します。

夏王統は邪馬壹国を滅ぼしたあと、日本海に沿って石見、出雲、伯耆、さらに若狭から近江へ勢力を広げたと仮定しましょう。『書紀』にある天日槍伝承、氏族でいうと息長氏と重なります。土井ヶ浜(山口県)や青谷上寺地遺跡(島根県)から出土した殺傷人骨は、訓練された組織的な戦闘形態を持った集団による領土拡大を物語ります。

伊都国の王統は『書紀』のナカツヒコ大王の時代も博多平野にとどまっています。領土的野心を示していないのは、王権の基盤が漁労と交易だからです。拠点は湊であって、領土に相当するのは商圏や漁撈の場であり、コロニーとコロニーを結ぶネットワークでした。自分たちが食する穀物を生産できる土地があれば十分でした。

その伝承はニギハヤヒとなって『先代舊事本紀』に書きとどめられました。すなわち物部氏で、その最大のコロニーが河内の日下というわけです。後世の松平氏のように、糸島半島の王家から多くの地域王権が枝分かれして行ったのでしょう。宗家、本家、御三家というような家格があったとしてもおかしくありません。

この時期、半島では韓地で「韓」「辰」の両王家が消滅し、大陸では華夏帝国の興亡が相次ぎました。韓」「辰」両王家が消滅するきっかけとなったのは、辰韓12國を帯方郡と楽浪郡で分割統治しようという魏帝国の企てです。

「魏志韓伝」に「二郡遂滅韓」と、短い情報が記載され、『三國史記』という朝鮮半島独自の史籍に「馬韓王薨」とだけ記されています。このことは後述します。

大陸における帝国の興亡は、具体的には263年蜀漢帝国滅亡(第2代皇帝劉禅が魏帝国に降伏)、265年魏帝国滅亡・晋帝国成立、280年呉帝国滅亡と続き、311年には晋もまた匈奴(羯族)の「漢」に滅ぼされました。

直後に司馬一族の琅邪王・司馬睿が建康(現在の南京市)に「晋」を再興と目まぐるしいことでした。以後、華夏大陸の北半分は五胡十六国、南半分は六朝が交代する南北時代に入ります。

非華夏族の帝国誕生は、北東アジア世界の大きな転機となりました。華夏帝国の勢力が黄河以南に縮退したことによって、313年、楽浪郡と帯方郡が消滅したのです。

公孫「燕」の滅亡以来、華夏帝国の支配を拒否していた高句麗族は一気に南下し、遼寧・遼東地方を占拠します。朝鮮族と華夏の人々を駆逐し始めたので、朝鮮半島は大混乱に陥ります。

その混乱が韓地の人々に危機感を生み、馬韓の人々は伯済國、辰韓の人々は斯蘆國に集結して行きます。伯済國はのちに百済王国、斯蘆國は新羅王国となり、相互に牽制しつつ、高句麗國の南下を阻止する構えを強めていきました。これが朝鮮半島における「三国」時代の始まりです。

この動きに倭地が"蚊帳の外"だったはずはありません。

漁撈・交易の民で江南ルートを継続した黒潮連合は勢いを盛り返します。倭人青潮連合は大口取引先である華夏の窓口を失いましたが、馬韓=百済国と連携して商圏を瀬戸内、紀伊、中部・東海地方に広げ、夏王権は日本海沿いに分国を形成していく。そんな感じではなかったでしょうか。

「謎の4世紀」は倭地の邑国連合が「王國」に転換していった時代です。同時に好むと好まざるとにかかわらず、朝鮮半島の権力闘争に参加していった時代でもありました。

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