(189)津軽十三湊と松浦党の結びつき
十三湊を遠望する(青森県五所川原市)
オホヒコを始祖とする氏族には、筑紫國造のほか、阿倍臣、伊賀臣、阿閇臣、膳臣などがいます。埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した金象嵌鉄剣(国宝)にある「乎獲居臣」も「上祖名意富比垝」と自称しています。
すると、武蔵國造の笠原氏もアヘ(アベ)一族だったことになってきます。この笠原氏は、第27代マガリ大王(勾大兄廣國押武金日:安閑)元年(534)旧暦12月に「武藏國造笠原直使主與同族小杵相爭國造」とあって、同族間の合戦に及んだことで知られます。
武蔵國王の王位継承を巡る戦闘だったのでしょう。その背景にヤマト王権との関係について臣従か独立維持かの対立があったのか、あるいは戦いはヤマト王権に対する反乱だったのか、様ざまな見方が可能です。
ともあれ、血縁者だけでなく、賜姓(暖簾分け)も含めて武蔵の地までアヘ(アベ)氏が浸透していたとなると、和田家文書『陸奥史風土記』があるじゃないか、という見解に力を与えるように思えます。そこに以下のような記事が載っています。
「筑紫磐井王系は、祖、邪馬壹王之系にして、太祖は高麗の血流なり。彼の一族ぞ東の耶馬台王の分倉王なれど、日向の高砂王東征に勝じてより、彼の臣に従ふなり。日之本将軍安倍國東、筑紫宇佐を日向王より奪領せしより古に復せり」
――筑紫の磐井王の系統は邪馬壹國王の後裔で、元は高句麗の人である。彼の一族は耶馬台王の分倉王だが、日向の高砂王が東征に勝利したとき臣従した。日の本の将軍・安倍國東が筑紫の宇佐を日向王から奪回したので、古に復した(昔のように独立した)。
と言うのです。
「邪馬壹國王」と「耶馬台王」は表現の非同期なのか別ものなのか、「分倉王」は固有名詞なのか「枝分かれの王」の意味なのか、「日向高砂王」は『書紀』にいうヒコホホデミ(彦火火出見=イハレヒコ:神武)の異名なのか等々、突っ込みどころ満載です。それはそれとして、本稿では、ここに登場している「安倍國東」という人名を取り上げます。
『陸奥史風土記』は続けて、
「代降り前九年の役にて安倍鳥海三郎宗任、鎮西に配流さるを契に、安倍、磐井之縁族併せ松浦水軍とならむ。倭朝、是を怖れなし、都度の討征をなしけるも滅亡無く、後世に安東水軍をも北辰に起せむ水軍祖なり」
と、一気に時代が500年ほど飛躍するのですが、つまり奥州安倍氏が筑紫磐井王家と浅からぬ縁続きなのだ、と主張しているわけです。
この記事の原典は「肥前平戸松浦氏古書」とされていて、9世紀から16世紀の長い期間、壱岐島から瀬戸内海にかけての海洋を支配した松浦党の由緒・事蹟を記したものです。松浦氏は徳川幕府で平戸6万3千石を領しました。奥州安倍氏も十三湊(青森県五所川原市)を拠点に、蝦夷地(北海道)から日本海、九州までを結ぶ海洋交易で栄えたことで知られます。
松浦党は古くから海を舞台に自立していた誇り高い氏族ですが、「出自は安倍である」と言うのです。なぜ東北の氏族に出自を求めるのか不思議なのですが、当の安倍氏が筑紫王家の末裔となれば話は変わります。