【散文】メディアアートの面白さ
数日間文章を書くことから離れていた。
単純に忙しかったから、それだけ。
久しぶりにKalafinaを聞いている。
梶浦由記の音楽は好きだが、その曲に歌詞が乗るとさらに儚さと切なさ、そして玩具箱のような印象が増して好きだ。
数日前に普段相談に乗ってもらう人と会ってきた。
最近の興味は『リアリティ』だ。
ガンダムにしろ、Fate/Zeroにしろ、人のリアリティが反映されている作品は面白い。
その登場人物の過去や経験によって、認められない人々の葛藤やぶつかり合いにリアリティを感じる。
作品を作るとき『リアリティ』が大事!
そのことを念頭に表現を行おうとすると自分の経験をもとにしか作品を作れないのが悩みだった。
ようやく表現が自分にとって必要な行為のようになってきた感覚は嬉しかった。
「俺、承認欲求だけで作品作らなくなったんだ。成長できたんだ。」
そんな感覚。
そんな快感を知ってしまえば一層『リアリティ』に固執してしまうのは当たり前だった。
リアリティがないペテン的な作品は自分には作れない。
文章はリアリティそのものだ。
自分の感情を直接表現せずとも情景描写や心理描写で表現できる。
ブログも同じだ。
そんなことを彼に相談した。
「ようやく美大生のような悩みが出てきたね」
彼はそう言ってくれた。
メンヘラのような美大生を嫌悪してきたしそうなりたくないと思っていたが、こうなった今は少し彼らの気持ちはわかる。
でも、彼らと自分は違うと思っていたい。
ともあれ自分と向き合うことで表現を行えるようになってきたし、ようやく追いつけてほっともしている。
でも、『リアリティ』を求めるとメディアアートの面白さはどこにあるのか?
自分の作っている作品は自分に根付いているのか?
承認欲求だけで作品を作ってしまっていないか?
そんな空虚な感情を彼にぶつけた。
彼は一言
「リアリティとは違う土俵にいるからメディアアートは面白いじゃん」
確かにナムジュンパイクの作品は自分と向き合ったリアリティを超越した位置にいる。
「自分と向き合ったり自分の深い部分に向き合うのは必要。でも一回やればそこに依存して作品は作らないくてよい」
そんなニュアンスのことを言ってくれた。
リアリティや自分の内側に指向性を持った部分からは生まれない面白さがメディアアートにはある。
メディアアートはぶっ飛んでいるしそれなりの文脈理解も必要だけど、見ていてワクワクする。
やはりメディアアートと向き合うのは楽しいのかも?
さらに彼は続ける。
「深い部分に潜ったりトラウマ的なものと向き合ったりして作品を作っていると幸せになると作品を作れなくなるよ。」
正直、満たされれば作品は作らなくても良いとは思っていた。
でも、穴の外にある綺麗な世界の存在を彼は教えてくれた。
共感されないし、ぶっ飛び度で消費されがちなメディアアートで食べていくことは難しいのかもしれない。
でも、メディアアートはロマン砲だ。
作品を作るときの姿勢が少しわかった気がする。
手を抜かず本気でやる。
でも、マイナスな気持ちで臨んではいけない。
Kalafinaを聴きながら会話を思い出すともっと夢想的になっても良い気がした。
でも、自分と向き合いながら文章を書くことは好きだ。
結局自分は文章を書いてしまうし、メディアアートもなんとなく続けていくだろう。
幸い作品強度を高める術がだんだん身についてきたのは良い兆候だ。
ますます脚本を描きたくなったし、今作っている作品の完成像も見えてきて肩の力を抜いて作品を作れている。
脚本を書くときは周りの人にいっぱい心配をかけるだろう。
自分がどうなるかよりそっちの方が怖い。
でも、メディアアートによってワクワクさを伝えられればそれはそれでバランスを取れている気がする。
僕は自信があるように見えるかもだけど、センチメンタルで繊細な一面も持っている。
両方の作品を作り続けることで僕は生きていたい。
恥ずかしい締まりにしたけど、Kalafinaを聞いたらこんな文章を描きたくもなる!!!
じゃあ今日はこの辺で!!!
バイバイ