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推しのおじさんにガチ恋しない 第一話

【あらすじ】
 好きな町に住みたくて転勤を決めたゆいな。転勤先には木野という植物が好きなおじさんがいた。
 ゆいなはかっこよくて背が高くて声がいい木野を激推し。推しのことは好きにならないと断言しているが……。
 推しへの恋に抗おうとする歳の差20の社内恋愛。


 広い座敷、机に並べられたたくさんの料理、一緒に並ぶのはさらに大量のジョッキ。汗をかいたそれは、とけかけた氷だけが残っている。

 机の端に座っている彼女────ゆいなは、空いている皿を重ねた。

 背中の通路に店員が通ると遠慮がちに、皿やジョッキを回収してくれないかと声をかけた。

 慌ただしく、強張った表情の店員は大学生だろうか。ゆいなより若く、メイクが可愛らしい。瞳には茶色のカラコンが入れられていた。

 彼女はゆいなの丁寧な申し出に呆気に取られたらしい。口を不自然にパクパクとさせた後に、疲れが吹き飛んだような笑顔になった。そして細腕からは考えられない量のジョッキを持ち上げ、残りは後で下げますと言い残して廊下の向こうへ消えた。

「はートイレ列えぐかった。中野ちゃん、あなたも主役みたいなモンなんだからもっと楽にしてなよ」

 ゆいなの横にドカッと腰を下ろしたのは、彼女の四個上の女性社員。先輩だが馬が合うので同い年の友だちのように付き合っている。

「主役の新入社員たちはあっちにたくさんいるじゃない」

「中野ちゃんだって三月にこっちに来たばっかでしょ。……あ、グラス空じゃん。なんか頼む?」

「しのちゃんと同じやつ」

「りょ。ジンジャーハイ二つね。タブレット貸してー」

 しのは前に座る若い男性社員に声をかけた。

「タブレット注文ホント楽よね。お店の人に気ぃ遣わんでいいしさ」

「今はどこもこれだよね」

 彼女は手慣れた様子でタブレットを操作し、注文を完了させた。

「ここはよく来るの?」

「うん。駅から近いでしょ? 解散しやすいし二軒目も探しやすいからって。会社で集まりがある時は大抵ここ」

「ご飯もおいしいし、いいところだね」

「でしょ? この辺はいいお店多いからどんどん開拓していくといいよ。なんならいろいろ連れてったげる」

「先輩ごちそうさまです!」

「こういう時だけ後輩ぶるな!」

 しのはニヤッとしてゆいなを肘でつついた。

 二人は中途半端に残っているフライドポテトをつまみ始めた。

「ところでどう、ウチの支店は。慣れた?」

「うん、皆フレンドリーでいい所だよ」

「でしょー。中野ちゃんはなんでウチに希望出したの?」

 話している間にお酒が届いた。先ほどの大学生だ。最初に声をかけた時と打って変わって明るい顔をしている。ゆいなが軽く手を挙げると少し嬉しそうに駆け寄ってきた。

 彼女はまた、大量の皿を涼しい顔をして細腕で回収していった。

 二人は汗をかいた重たいジョッキを掲げ、半分ほど一気に呑み干した。机に置くとカラン、と氷が音を立てた。

「たまに遊びに来るんだけど、ずっとアマに住みたかったから。田舎過ぎず都会過ぎないのがちょうどいい」

「ふーん」

 しのは追加でからあげを口に放り込み、ゆいなの肩をポン、と叩いた。

「で? 新入りさん。いい人は見つかったのかい?」

「しのちゃんそういう話好きよね……」

「当たり前でしょ! で、どうなの?」

 しのが身を擦り寄せるとゆいなは咳払いし、拳を握った。

「……木野きのさんしか勝たん!」

「あ、やっぱり? ここに入った女子が辿るルートまんまね」

 ゆいなは満面の笑みでジョッキを傾けた。

「おじさんだけどかっこいいし、何より声がいいよね! あんなに柔らかい声聴いたことない! 高身長でいつもニコニコしててマイナスイオン出てると思う」

「……ガチじゃん。オタクのそれじゃん」

「だってオタクだもん」

 ゆいなはしのが寄せた皿のポテトをつまむと、机の向こう側をちらと見た。

 そこには人だかりができている。その中心にいるのは誰よりも体格がよく、ジョッキを片手に優しい笑顔の男性社員。ゆいなたちが持ったら巨大なジョッキも、彼が持つと小さく見えてしまう。

 彼女はジョッキを机に置くと木野に向かって手を合わせた。

「今日も推しが尊い……木野さんの笑顔で寿命延びる!」

「推しって。そんなんじゃ他の女性社員に勝てないぞ。ライバルめちゃくちゃ多いよ?」

「あ、私はリアコじゃないんで。推しは遠くから見つめてるのが一番なんで。推しと結ばれるとか解釈違い過ぎる……し、既婚者でしょうがそもそも」

「あ、知らなかった? 木野さんあぁ見えて独身だよ」

「え? バツイチ?」

「私も最初はそう思ったけど本当にサラピンなんだって。事務の人が木野さんが提出した戸籍謄本をチラ見したって」

「いいのそんなことして……」

「そりゃあ女子は皆知りたいもの。私も結婚してなかったら木野さんにアプローチかけるのになー」

「旦那さんが怒るよ……」

「大丈夫大丈夫。別腹だから」

 しのはがっはっはと男のような豪快さで笑ってジョッキの中身を一気に飲み干す。

「いい男見てると酒がすすむわぁ。ちょ、もっかいタブレット」

 しのは再び手を差出し、『篠山さんはペース早いんだから持っててください』とタブレットを渡された。

「推しが既婚者じゃないと知った今どうなの。木野さんのこと俄然気になり始めたんじゃないの?」

「なんで恋に発展させようとすんのよ……。年齢考えてよ、私26なんだけど」

「木野さんは46だからちょうど20歳差か……。いいんじゃないの? 今時歳の差婚なんて珍しくないでしょ。私の友だちで一回り年上の人と結婚してる人いるし」

篠山ささやまさん、こんなとこで絡んでんの?」

「あ、瀬津せつさん」

「課長お疲れ様でーす」

 瀬津はしのとゆいなが所属する部署の上司。小柄で丸メガネが特徴だ。

 彼はジョッキを傾けないようにしながら、ゆいなの隣であぐらをかいた。

中野なかのさん、ナゴヤから来たんでしょ? 今どこ住んでんの?」

「ナゴヤじゃないです、富橋です」

「でもナゴヤの向こう側みたいなもんでしょ」

「課長ー。プライベートですよ」

 大きなジョッキを傾ける瀬津に、しのは二の腕をはたいた。

「僕も中野さんのこと知りたい。彼氏は? 一緒にこっちに越してきたの?」

「もう課長……」

「しのちゃん、私はなんとも思ってないよ。富橋支店でも恋バナが好きなおじさんはたくさんいたから」

 ゆいなは懐かしそうに目を細めた。事実、前の支店でも吞み会で彼氏だとか結婚の話をよくしていた。

「彼氏なんていないですよー」

「そうなの? じゃあウチで見つかるといいね。篠山さんみたいに」

「それはいいかも! ウチは社内結婚多いですもんね!」

「急に意気投合するじゃん……。私はそういうのはいいですよ、恋人探しに来たわけじゃないですし」

 遠慮気味に手を振ると、二人に盛大なブーイングを飛ばされた。唇をとがらせてつまらなさそうにしている。

「えーなんでぇー? 中野さんまだ二十代じゃん。今のうちにもっと遊んでおきなよ」

「私は恋愛で遊べるような器用なタイプではないので……」

「あーそう?」

「お手洗い行ってきます」

 歯切れが悪くなったゆいなは二人を残して席を立った。

 トイレ列エグイから覚悟しなよーと見送ったしのは、勢いよく瀬津の方に振り返った。

「で? 瀬津さん。何もなくてここに来たんじゃないでしょう。課長は絶対席離れてウロつくタイプじゃないですからね」

 瀬津はジョッキをあおりながら、うんうんと目尻にシワを寄せた。

「本当はね、中野さんの視線をこっちでビシバシ感じたからちょっと来たのよ。なるほどね、木野くんのことを見てたっちゅーわけね」

「あ、聞いてたんですね」

「そ。吞んで中野さんの声が大きくなってたから」

 しのは”確かに……”と、ゆいなが消えていった方向を見てうなずいた。

「木野さん激推しらしいですよ」

「最近のコは推し推しって……好きな人でいいじゃん」

「あ、本人曰く恋愛感情はないみたいで」

「なんだ、つまんないの。でも木野くんに話しとこ。おもしろそうだから」

 二人は笑い合い、しのが新しいジョッキを受け取ったところで乾杯をした。彼女はまた半分を一気に吞み干し、話題の中心人物である優男に目を向けた。

 吞み会が始まって三十分もしない内から、彼の周りには代わる代わる人がやってきた。そのほとんどが女性社員だ。老いも若きも関係なく。彼は優しくて無害だから、と普段から囲まれがちだ。

「木野さんモッテモテで困りますね」

 木野が何かを言い、周りが爆笑している。彼の隣にいるマダムが勢いよく肩をはたいた。

 今度は若い女性社員が小さく手を挙げながら話し始め、木野は優しく口角を上げて見つめている。彼がモテるのはそういうところだ。人の話を大事そうに聞いてくれる。それに勘違いしそうになった女性社員は数知れず。

「困ってんのはこっちだわ。いつまで経っても結婚しない。あぁだけど最近は木野君に告白する人も皆無みたいだし? ここ十年以上は彼女なんてできたことないんじゃないかな」

「え、そんなにですか? 確かに浮ついた話は聞いたことないですけど……」

「昔は今以上にモテてえらい大変だったよ。その気になれば彼女をとっかえひっかえできたと思う」

「ウチの旦那が悔しがりそう……私以外と付き合ったことなかったらしいし」

「いいじゃん素敵やん。初めての彼女が奥さんって」

 瀬津は肘でつつく振りをすると、仲がいい社員同士で楽しそうに呑む男をあごでしゃくった。

 トイレ列はしのが言ってたほどではなかった。他の座敷ではがらんと空いたり、帰る準備をしている客がいる。

 自分たちもそろそろお開きかな。しのの元へに戻ろうとしたら、男女二人が話しているのが視界に入った。

高槻たかつきさん、二軒目どうかな」

「……ごめんなさい、あんまりお酒強くないの」

小田おださん……と、真由子まゆこさん?)

 どちらもゆいなの部署の先輩で、しのの後輩だ。

 小田はどこにでもいそうな見た目だが、高槻真由子の方は目を見張るほどの美人。

 キツめの顔立ちで、春色な七分丈のワイシャツとパンツスーツがおしゃれ。見た目はバリバリキャリアウーマンだが、初対面で”中野ちゃん”と呼んではにかんでいたのが可愛らしかった。

 それにしてもこの二人が話しているのをあまり見たことない。真由子の方は肩を縮こませ、少しずつ距離をとっている。氷だけが入っているグラスをテーブルの上で両手で握りしめていた。表情もよく見えない。

 迷惑がっているというか怖がっている様子に小田は気づいていないらしい。普段、会社では大して笑わないのに真由子にはとびきりの笑顔を向けている。

「呑まなくてもノンアルカクテルとか。いいバーを知ってるんだ。オシャレだから君も気に入ると思うよ」

 ちょっと小田さん……。さすがに制止しようとパンプスを脱ぎかけたら、先に間に割って入った者がいた。

「大丈夫? 高槻さん」

「……木野さん」

 ゆいなの最推しだ。眉を下げ、真由子の顔を心配そうに見つめている。

 彼女も彼の登場に安心したようだ。顔を上げ、心を開いているような明るいほほえみを浮かべた。

 その表情で全て分かったのだろうか。木野は軽くうなずいた。

「帰りは送るから。店の前で待っててね」

「ありがとうございます」

 木野は座敷から下りて革靴に足を入れ、真由子は帰る支度を始めた。

 出番を失ったゆいなは、この場にいたことがバレないように静かに立ち去ろうとした。が、背中が壁とぶつかってわずかに前に飛び出た。

「え……木野さんとまゆこりんって……?」

「あ、しのちゃん」

 いつの間にか後ろにいたしのは、ゆいなの目の前の光景に釘付けらしい。見てはいけないものを見てしまったように、口元を手で押さえた。

「付き合ってるぽいよね?」

「うん、なのかな?」

「ちょっとショック受けたでしょ」

「だから私は推しと結ばれるのは解釈違いで……」

 またまた……と疑り深いしののことは放っておくことにした。

「真由子さんって守ってあげたくなる可愛さがあるし、木野さんも実は好きなのかな」

「かもねー。前から二人って話してること多いなとは思ってたんだわ。小田ドンマイ」

「あーあれ……狙ってたんだ」

「そ。小田のくせに高望みしやがって。まゆこりんはお前にもったいなさすぎだわぁ!」

「しのちゃん声でかいってば……」

 振り向くと小田は、一人になって正座をしていた。

「仕事はできるけどねー愛嬌がないのよねー。無愛想な俺かっこいいって思ってるのか知らんけど、私は絶対付き合いたくないタイプ」

「分かったから分かったから! 聞こえるって……!」

 ゆいなはしのの背中を押しながら何度も振り返った。

 小田は真由子に相手をされなかったことにショックを受けているのだろうか。猫背になり、微動だにしなかった。

 ゆいなが木野に初めて会ったのは、彼女が入社してから二年経った頃だった。

「おはよう、中野さん」

「セイラさんおはようございます!」

 セイラはゆいなの大好きな先輩の一人である。

 スラッとしていて綺麗で爽やか。パステルカラーのジャケットとテーパードパンツがよく似合う人だった。彼女に憧れてゆいなも同じような服を身につけるようになった。

 セイラはある日突然転職してきた人だと聞いてるが、すぐに慣れて数多くの仕事をテキパキとこなしている。

 それは俺とのコンビネーションのおかげでもあるんだけどね、とセイラと背中合わせに座るレイトがよく自慢している。

 しかし、ゆいなは駅前で見たことがある。レイトの目の前で殺し合いのような喧嘩をしている女子二人を。レイトは自分のものだからお前はさっさと死ねと叫ぶ地雷ちゃんたちを。

 職場では女癖の悪さを隠しているようだ。レイトのことをかっこいい、と好きになる女子社員は多いが、彼と付き合っているという話は聞いたことがない。

「おっはよー、セイラさん中野ちゃん」

 例の男が現れ、ゆいなは作り笑いを顔に貼り付けた。どんなに優しくされても笑いかけられてもコイツにだけは引っかからない。

 レイトはゆいなの愛想笑いにニコッと返すと、カバンを雑にキャスター付きの椅子の上に放った。

「今日ってコーべから社員さんが来るんスよね? もうみえてます?」

「さすがにまだだよ」

「社員さん、ですか?」

「そ。いつもは瀬津さんって方がみえてたんだけど、今年は木野さんが来るんだって。他の支店の様子を見たり意見交換するんだよ。ちなみに木野さんは私たち転職組の大先輩」

「セイラさんの? へー」

 仕事に取り掛かり、客が来ることを忘れかけた頃に彼は現れた。何人もの社員が仕事を中断し、彼の周りに集まっている。

 ゆいなも挨拶をしようと人だかりに加わると、それに気が付いたらしい彼が会釈をした。

「木野です。どうも」

 随分大きな男の人だと思った。そして若造に対しても丁寧に接してくれる。優しく柔らかいほほえみを浮かべていて、不思議とこちらの表情も緩みそうになった。

「あ……」

 しかしゆいなは、彼の優しい顔の下を見つめて口をポカンと開けた。

「ん?」

 ゆいなの様子に木野は、穏やかな表情に怪訝さを足す。

「あの……胸ポケットのお花、素敵ですね」

 胸ポケットにお花。成人男性、どころかおじさんという形容詞が似合う男。彼にはそんなファンシーなものを身につけて出張する趣味はない。結婚式の主役でもないのに。

 他の社員は気づかなかったのだろうか。周りでは一部の社員は笑いをこらえるように口を引き結んでいる。中にはうつむいている者もいた。

 木野は胸ポケットに手をやり、例のお花を引き抜いた。紫の細長い花。つぶつぶとした小さな花がついており、ひょろっとした茎は青緑色をしている。しかし、全体的にしなっとして元気がない。

 木野は視界に入れた瞬間に額に手を当てた。

「これ、ウチの庭のラベンダー……あ! 皆黙ってたな!?」

「え?」

 確かにウチの社員は心の中で笑っていたみたいですけど……。さすがに声には出せないので分からないフリをしておいた。

 彼は特に気が付かなかったようで、首の後ろに手を当てて目を閉じた。

「新幹線乗る前に会社に寄ったんだよ。なんかクスクス笑ってると思ったら……。そういえば篠山さんがネクタイ直すとか言ってきたな……その時か!」

 木野はブツブツつぶやいている。

 ゆいなはラベンダーをまじまじと見つめ、両手を遠慮がちに差し出した。

「このラベンダー、もらってもいいですか」

「いいけどおじさんがずっと持ってた花だよ?」

 木野が苦笑いするのに構わず、ゆいなはそっと受け取って輪から外れた。

 コーヒーメーカーが置いてある場所には、水を張って花を浮かせた皿がある。ラベンダーを仲間に入れ、ゆいなはほほえんだ。直に水を吸って元気になるだろう。

「へー。いいね、こういう飾り方」

 いつの間にか着いてきたらしい木野が隣で感心している。親戚に教えてもらった方法を男の人に褒められたのは初めてだった。

 ゆいなは照れてはにかんだ。

「花瓶にいけてた花のほとんどが枯れてしまったのですが、少し残っていたのを切って並べてみました」

「よく考えたなぁ。ウチでもやってみようかな」

「そちらの支店でもお花を飾っているんですか?」

「うん、うちの庭で育てたヤツを定期的にね。たまに花キュー〇ットおじさんって呼ばれる」

「花キュー〇ットおじさん……ぶはっ」

 口の中でつぶやくと、ゆいなは派手に吹き出して腰を折った。

「え……そんなにおもしろい? この前行った支店では不発だったんだけど……」

「ちょ……誰ですかネーミングセンスいい人! めちゃくちゃ最高です!」

 腹がよじれるほど笑ったゆいなは、木野が困った顔をしているのに気がついて涙を拭う。

「すみません……つい」

「笑いすぎだよ……えっと」

「中野です。私は会社のお花の世話をすることが多いんです。だから私は花キュー〇ット女ですね」

 冗談交じりに名乗ってニヤッと笑って見せると、今度は木野が手を叩いて吹き出した。思いのほかウケたようでちょっと嬉しい。元ネタは彼から、だが。

 ゆいなはその笑い方に惹かれて目を見開いた。さっきまで柔和な顔でほほえむのと違う、心からおもしろいと思って破顔している。

 先ほどの優しい笑顔も心からのものに見えるが、大口を開けて手を叩く笑い方も彼の素なんだろう。

「いや……ごめんね。中野さんみたいな若い子の不意の冗談がおもしろくて……。このあだ名は最近社内で結婚した子につけられたんだけど、派生してもらえたって知ったら彼女も喜ぶと思うよ」

 その社内恋愛の末に結婚した女性が後の親友だとは、この時のゆいなは知らない。

 あの後各部署を回った木野は、同年代の社員たちと昼ごはんを食べに行ったらしい。

「かわいいおじさんだったでしょ」

「はい。大きいのにかわいかったですね」

 木野がこれから新幹線で帰ると聞き、ゆいなはセイラと共に表に出た。

 この短時間で木野はたくさんの社員の心を掴んだ。もちろんあの優しいほほえみで。

 木野さんのファンになっちゃった、という女性社員も多数。彼がこの支店を出る頃にはマダムたちに『木野ちゃん』と呼ばれ、このままウチにいたら? と誘われていた。

 そんな彼はたくさんの人に見送られ、タクシーに乗り込んだ。その時もタクシーのドアが開けられた時に一礼してから。そんな丁寧な彼にますます皆が感心する。

 またいつか会えるだろうか。会えたらいいな。

 その頃はまさか、四年後に自分から彼に会いに行くことになるとは思っていなかった。

 木野は独身彼女なし。

 亡くなった祖父母から譲り受けた大きな平屋を改築しながら一人で暮らしている。

 趣味はガーデニング。広い庭では様々な植物や実がなる木を、小さな池ではいろんな種類のメダカと睡蓮を育てている。休みの日はもっぱらそれらの世話をしている。

 今日は休みだったので、植物たちに水を、メダカに餌をやってから瀬津と呑んでいた。

 瀬津は上司だが歳が近く、この会社に転職した時から世話になっている。

 家に帰ってきて、まずは水をコップ一杯。アルコールを分解中の体に冷たい水が染み渡る。

『木野君、中野ちゃんが君のこと推しだってよ』

 もう一杯注ぎながら考えたのは、瀬津に教えられたこと。彼はおもしろがっているのが丸わかりな顔で、この間の呑み会でのことを話していた。

『いろいろ話してくれたよ〜。声も顔も、身長が高いところも好きだって』

『他の人にもよく言われますよ……』

『自慢か色男。早くその何千人の女たちから嫁さん探せよ』

『何千人は大げさ』

 自慢ではないが昔からモテた。若い時は調子に乗って、今の彼女と別れそうだからと同時期に別の人と付き合うこともあった。

 しかし年齢を重ねるにつれ、お付き合いを前提とした告白はされなくなっていった。

 今はもっぱら『木野さんってかっこいいですね!』という、もはや感想みたいな言葉ばかり。しかも人妻や彼氏持ちに言われることが多い。

 昔は自分からグイグイいくこともあったが、今はフラれるのが怖くなって告白ができない。それにこの人、という人もいない。

 結婚願望はそれなりにある。こんな歳だからあまり多くは望まない。ただ、自分を好いてくれる人と一緒になりたい。自分を好いてくれる分、愛情を注ぎたい。……と、考えていることは黙っている。

『他の人と同じ、とは限らないと思うけど』

『……なんでですか』

『中野ちゃんの君への想いがめちゃくちゃ熱かったからだよ。君の推しポイントが細かかった』

 その後は木野が若干目の色を変えたことに瀬津が気がつき、からかわれたので肝心なことが聞けなかった。

 中野ゆいなのことは知っている。というかよく覚えている。

 初めて瀬津に代わって出張に行った年に出会った、明るい子。花を育てている自分に怪訝な顔をすることなく接してくれた。

 昔は付き合っている女性に『花の名前じゃなくてブランドの名前を覚えてよ! 誕生日にほしいバッグがあるんだけど……』と言われたことさえあった。

 四年ぶりに再会したのがまさか、自分がいる支店だとは思わなかった。彼女は志願してこちらへ来たらしい。あの頃より垢抜けてさらに可愛くなっていた。

『彼氏いないってよ。篠山さん情報によると大学生の時が最後らしい』

『……なんの情報』

『狙うなら今だ!』

 ダンッと勢いよくジョッキを置くと、今日一番の声量を浴びせられた。他の客や店員の視線が集まってくるのが振り向かないでも分かった。

 木野は瀬津に”しーっ!”とジェスチャーをし、小声で言い返した。

『なんで俺が中野さんと付き合いたいことになってるんですか! ていうか彼女、相当若いでしょ。俺みたいなおじさんなんか……』

『口説けー!』

 これはダメだ。完全に酔っぱらっている。ため息をついた木野はため息をつき、自分のビールを一気に飲み干した。

(中野ちゃん、ねぇ……)

 彼女が異動してきてからまともに話せていない。お久しぶりですね、とお互いに会釈をしただけ。木野は木野で片づけなければならない案件があり、営業に行くことも多かった。だが、彼女の評判は耳に届いている。同じ部署内ではもちろん、他の部署やカフェでも評判が良く、どこからもウチに来てくれと言われているようだ。だが当分は瀬津がそれを許さないだろう。

「中野ゆいなァ!」

「ひっ!?」

 仕事をしていたら、怒号と共に大きな気配を背中に感じた。ゆいなが恐る恐る振り向くと、非常に肩幅のいい男が真後ろで仁王立ちしていた。

 見たことがない社員だ。両腕を組み、ゆいなのことを見下ろしている。今にも湯気が噴き出しそうなほど鼻息が荒い。

「ど、どちら様でしょうか……」

 彼はゆいなの問う声にこめかみの血管を浮かせた。短く刈り上げた髪のせいで余計に怖さが増している。彼女は身を守るように、机の上のバインダーを引っ掴むと体の前で掲げた。

 隣の席のしのは、飲み物を買ってくると言って席を立っている。他の社員はなんだなんだと遠目に様子を伺うばかり。

 誰か助けて……それとも自分が何かやらかした? と冷や汗をかいていると、男が人差し指を突き出した。鍛えられた体と同じく、ごつごつとした太い指だ。

「お前……木野の兄貴のことを推しだなんだとほざいているらしいな」

「え? まぁ、はい」

 話したことがない人にまで広がっているとは。まだしのにしか話したことがない気がするが。

 他にも木野推しの人はたくさんいるだろう。特別目をつけられるようなことはしてないはずだ。

「お前のは他の女より気持ちが重いらしいな……身の程を知れェ!」

「き、気持ちが重い??」

 それってガチ恋ってことですか、と手を挙げかけたら男の頭が横にそれた。

「ごっ」

「ごらぁ西にし! 中野ちゃんに絡むな!」

「しのちゃん、こちらの方は……」

 男は先ほどまで堂々として山のように大きかったのに、しのに首根っこを掴まれて小さくなっている。

「こいつ? 西。隣の部署の筋肉バカ。木野さんのことを尊敬してて、子犬みたいに懐いてる」

「誰が子犬ですか!」

「キャンキャン吠えるな!」

 しのは反対の手に持っているバインダーで額を叩いた。西はますます小さくなる。

「西ぃ! 仕事中に遊んでんじゃねぇ!」

「遊んでるわけじゃ……」

「中野ちゃんに絡みに来たんだろうが! 筋肉部長に言いつけるよ!」

「瀬津さんに用事があるのでセーフです……」

「こいつ……」

 しのはもうひと叩きし、ゆいなの元から連れ出した。瀬津のデスクが近くなると放り出して自分のデスクに戻ってきた。パンツスーツのポケットからコーヒーのロング缶を取り出しながら。

「バカだけどそんなに悪いヤツじゃないの。でも……同担拒否のケがある」

「同担拒否……そこまで木野さんのことを……」

 瀬津と話している西は真剣な表情をしている。よく見ると太い腕のせいでワイシャツがぴっちりしている。あんな人は富橋支店にはいなかった。

「西は中野ちゃんと同い年だけど、高校を卒業してからすぐにここで働き始めたの。あんなヤツだけど先輩扱いしてやってくれる? おだてれば気を良くするから」

 ゆいなは苦笑い気味にうなずいた。

 彼とうまくやっていける自信はない。だがここは推しが同じ身として、仲良くなれたら……と、いかつい顔を盗み見た。

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