君を知らなければこんな想いを知らずに生きた 第六話
週明けの朝。部署のドリンクバー付近に箱入りのクッキーが置かれていた。
誰か旅行にでも行ったのかと近付くと、箱のフタを立たせて”皆さんでどうぞ!!”とメモ書きがある。
ありがたく頂戴しておやつに食べることにした。一つ手に取って自分のデスクに行くと、レイトがすでにパソコンに向かっている。
「おはよう、木山君」
声をかけるとレイトは椅子ごと振り向き、セイラが手にしている物に気づいて歯を見せた。
「はよーございます。あ、それ俺が買って来たんスよ~」
「そうなんだ。頂きます」
「どーぞどーぞ。出張のお土産です」
「あぁ……。そういえばキヨちゃんと行ったんだっけ」
先週の金曜日は木山の席が空いていた。二人から離れた清田の席も。あの日は背中が静かだ、と仕事中に何度も振り返ってしまった。
おやつの時間になってもがお裾分けする相手がいない。引き出しからクッキーを二つ取り出したが、片方は戻した。
「そうですそうです。アイツ、緊張で前日は全然寝られなかったらしいっスよ」
営業の特訓をするんです、と清田は張り切っていた。木山を見習いたい、とも。
清田は三人で呑んだ日に生まれ変わったようだ。先輩への態度を改め、磨いた靴で出社するようになった。
受け答えする姿はハキハキとしており、見事な好青年そのもの。上司に褒められているのを何度か見かけた。お姉さん社員から可愛がられているところも。
「慣れないことしたもんね」
「しかも張り切りすぎて帰りの新幹線で爆睡してたんですよ~。可愛いヤツです」
爆睡してレイトの肩に寄り掛かる姿が思い浮かぶ。思わず笑うと、レイトがニヤニヤしながら口元に拳を当てた。
「セイラさん、俺がいなくて寂しくなかったですか~? 久しぶりに三日くらい会わなかったけど」
「ちょっとね。おしゃべりさんがいないと静かすぎて……。君のおしゃべりは私にとっていいBGMだから」
「あ……はぁ……。飲み物買ってくる!」
「え、今?」
椅子から飛び降りたレイトは人にぶつかりながら事務所を飛び出た。
何をそんなに慌てているのだろう。朝一から駆ける元気があることには感心する。セイラは”やっぱり若いな……”とその後ろ姿を見送った。
さて今日もお仕事お仕事、とパソコンを起動し、いつものようにほうじ茶を準備した。
飲み物だったら事務所でも手に入るのになぜ、レイトは外へ買いに行ったのだろう。確かに会社内には自販機もあるが。
(ここにはないものを飲みたかったのかな……)
セイラはほうじ茶のティーバッグをマグカップに入れながら、コーヒーメーカーを見つめた。
(あんなこと言う人だっけ? いや、そうだったかもな……)
レイトはお手洗いに駆け込み、洗面台に手をついて心臓をバクバクとさせていた。
自分がいなくてセイラが寂しいだろう、なんて冗談で言ったことだ。まさか自分の存在が生活を彩る一部、のように返ってくるとは思わなかった。
今までの彼女たちには、レイトと一緒にいられて幸せと言われることが多かった。”レイトがいてこその幸せだよ”、とも。
『君のおしゃべりは私にとっていいBGMだから』
セイラからだと特別な物をもらったよう。抱きしめられた気さえした。そのせいで動揺し、部署を飛び出てしまった。
セイラと付き合いたい、というのは彼女にしか伝えていない。今のところ彼女には響いていないようで、アプローチですらスルーされる。
今まで気になった相手を堕とせなかったり、動揺させられなかったことはない。甘くささやけば誰もが振り向いた。しかし、セイラは一筋縄ではいかない。
今まで簡単に堕とせていたのは逆になぜだろう。やっぱり顔か。
レイトは顔を上げ、鏡越しに自分の目をのぞきこんだ。瞳は時々熱を持って艶を帯び、相手を誘う。甘くとろけた様子はまるでチョコレートのよう。
だが、簡単にセイラに好かれなくても、アプローチすることを楽しんでいる自分がいた。
うまくいかない恋なんて自分とは無縁で、ドラマだけの話だと思っていた。だが、このもどかしさは癖になりそうだ。これを本人に話したら変態扱いされそうな気がする。彼は片手で目元を覆い、首を曲げた。
(あとでなんて話そうか……。セイラさんのことだからさして気にしてないかもな……)
部署の外で飲み物を買うなんて滅多にない。大抵のものは部署内にあるからだ。ほうじ茶を淹れるセイラに便乗してコーヒーを用意するのがいつものルーティーン。
(一緒にあったかいモンでも飲んで、出張の話でもしてごまかそ……)
レイトは頬をぴしゃりと叩くと、手ぶらで部署へ戻った。
「天木さん。これ……」
「あれ!?」
背中越しに聞こえた素っ頓狂な声は、あまり聞き慣れないものだった。レイトは片眉を上げて振り向いた。
女性社員がセイラのデスクのそばに立ち、一枚の用紙を見せている。注文書を印刷したもので、走り書きのメモがされた付箋が貼ってある。
セイラはそれを信じられない、という顔で受け取った。
「発注の数全然違う……」
「まだ大丈夫です、先方が確認してくださったので」
「危なかった……。私から電話入れるね、ありがとう」
女性社員が会釈をしてセイラの元を離れた。
椅子ごと彼女の横に移動すると、セイラはため息をついて受話器を上げた。額の汗を拭い、渡された紙に目を細める。
「どーしました?」
「発注の数、いつもと一桁違ってた。危ない危ない……」
「珍しいですね」
「嫌だね、ぼーっとしてるのかも」
セイラは無理して笑っているのか口元が歪んでいる。声には疲れがにじんでいた。
よく見ると頬が赤い。心なしか瞳もうるんでいるように見える。
「セイラさん……」
「ん? ……ちょっと」
レイトは受話器を戻させた。右手で自分の額をさわり、左手で彼女の額にふれる。
季節は冬に移り変わり、社内では暖房を使っている。セイラの席は温風が直撃する席だが、汗ばむほど暑くはないはずだ。
「セイラさん……。熱ありますよ、これ」
「……微熱だよ」
小声で手を払われ、セイラが再び受話器に手を伸ばす。
”あぁもう”とレイトは彼女の腕を掴み、例の用紙を自分のデスクに置いた。
彼女は体に鞭打って仕事をしていしたのだろう。心の内を簡単にさらけださない彼女ならありえる。
「ダメです、なんでこんな状態で出勤したんスか?」
「朝はなんともなかった。お昼から急に……」
今までは気を張っていたのだろう。バレてしまった今、気が抜けて声に覇気が無くなっている。
セイラはしんどそうな重い息を吐くと肘をついた。手で額を押さえ、うつむいている。
レイトはセイラの椅子からコートを取り、彼女の肩にかけた。近くの女性社員が二人にうなずくと、席から立ち上がった。
「帰りましょう。電車でしたっけ?」
「でも皆に迷惑が……」
「体調が悪い時は無理しちゃいけません。一人抜けたくらいで回らない、ヤワな部署じゃありませんから」
「……ごめんなさい」
小さな声で泣きそうなセイラ。レイトは細い肩にコートをかけ、彼女の通勤カバンを持ち上げた。
その時に偶然、カバンの中身が見えた。
そこには観光地を特集した雑誌。オレンジや黄色、ピンクの文字を使った雑誌は華やかで、どこかへパーッと行きたくなる気持ちを掻き立てられる。レイトも彼女たちに見せられたことがあった。
(もうすぐ……だもんな)
レイトは一旦それを見なかったことにし、セイラを連れて会社の外に出た。
会社から大通りまでは少しある。先に歩くとすぐに距離ができでしまった。歩くのもしんどくなっているのだろう。後退して彼女の横に並ぶと、彼女の歩幅に合わせた。
本当だったら車で送りたかった。しかし、同棲していた彼女に買ってもらった車は売り払われてしまった。
「後はキヨと俺でなんとかしますから。これからのためにいろいろ教え込んでおきますよ」
「うん……。ありがとう」
大通りに出るとレイトは、去り行く車に”お前じゃないんだよな……”と目を細め、タクシーを見つけると手を振った。
タクシーは真ん中の車線を走っていたが、0.5秒ほどウインカーを光らせた。強引に車線変更をするとレイトたちの前に滑り込んできた。自分がこのタクシーの後ろを走っていたら罵っていたところだが、素早く来てくれたのはありがたかった。
開いたドアにセイラを押し込み、その横にバッグを置いた。
彼女は運転手に会釈すると住所を伝えた。運転手がナビを入れている間、彼女はレイトを見上げた。
「ありがとう、木山君」
「全然! ……あ、薬とか食べ物は大丈夫ですか?」
「うん。今日は実家に帰ることにするから。皆によろしくね」
セイラがシートベルトを締めるとドアが閉まった。
タクシーから一歩離れて手を振ると、セイラが遠慮がちに手を振り返した。
実家に帰ったセイラは、驚いた母に迎え入れられた。
「無理がたたったかしらねぇ。セイラは頑張りすぎだから」
「うん……」
母はセイラを横にすると、薬と白湯を用意した。
昔は完璧主義だった母。中学生の時からいい高校に通い、いい大学に通うことこそが最適な人生だと言われ続けた。母の期待に応えたいのと、それ以外の道を知らなかったので従ってきた。そのせいか、セイラが何かを決断する時に頭の片隅で母の言葉がこだまする。
無理することが美徳、風邪程度で休まない。洗脳のようなそれは前の職場でも作動した。
洗脳から逃れたくて退職した時に実家を出た。その間に母の考え方も代わり、無理を押し付けることはなくなった。だが、セイラの心はまだ解放されてなかった。
薬を飲むと横になり、ブランケットをかぶる。眠気はすぐにやってきた。
(店長……)
体調が悪い時に思い浮かぶのは、長年苦楽を共にした腹黒社畜店長。異動で店舗や店長が定期的に変わるが、彼とは長く働いた。
あの店に厄介な客が来ることはあまりなかった。だが時々、同じ人間なのかと疑いたくなる客が訪れることがある。
当然、セイラも店長も表では笑顔で接するが、客が見えないところでは悪態をつきまくった。
『天木さんも結構言うんだね』
『もちろんですよ! 本当だったらあぁいうの出禁にしたいですよ』
『分かる~。次でスリーアウトだから声かけちゃおうか』
悪口を言いまくったのになぜかお互い笑顔。心は晴れ、客席に戻った時には怒りを忘れていた。
『前の店長は悪口いうと注意してくるんです。自分は舌打ちしてたくせに……』
『あぁあの人? クソ真面目なのに面倒を人に押し付けるだけあるね』
『しかもいろんなマネージャーを共演NGにしてますよね。言うこと聞かないからって……。私もNG側に入りたかったです』
『天木さんの評判いいから。高校、大学と働いてくれて信用があるもん。俺も噂の天木さんと一緒に働けるって知った時はよっしゃ! って思ったよ』
働き始めた頃に言われた彼の言葉が嬉しくて、気持ちがつらくても体は動かせた。
(店長、覚えてるかな……)
久しぶりに昔のことを思い出したからか、店長と一緒に働いていた頃の夢を見た。
彼の連絡先は知らないが関西に異動した、というのは覚えている。当時のことを思い出すとつらくなるので、同期との連絡先も消してしまったことを後悔していた。
あの時の楽しい思い出を振り返られるようになった今、それを話し合える人に無性に会いたくなった。
今の会社を退職したら関西の店舗に遊びに行くのもいいかもしれない。旅行のついでに。運がよければ彼に再会できるだろう。
次の日も大事をとって休んだセイラは、布団の上で寝入ったりスマホをいじったりを繰り返していた。こうして実家でグダグダと過ごすのは久しぶりだ。
母は仕事。空腹を感じたら適当にレトルトのおかゆを用意したり、菓子パンをかじった。
まどろんでいると、目覚ましの音が聴こえた気がし、布団の中で目を開けた。
電話だ。枕元に置いたスマホが光っている。布団から腕を伸ばしてスマホを手に取ると時刻は夕方。窓越しに見えた空は真っ暗だ。
「もしもし……」
『あ、セイラさん? 木山です』
「お疲れ様……』
聞き慣れた声にホッとした。セイラは身を起こし、部屋の明かりをつけた。カーテンを引き、冷えてきたのでエアコンのリモコンを手に取った。
『どうですか? 体調は』
「なんとか生きてるわ……」
”安否確認できましたー”と、レイトの声が遠くなった。課長にでも報告しているのだろう。電話越しにざわざわとした物音が聞こえる。帰る準備をしている者が多いのだろう。”お疲れ様でした~”、”お疲れ~”という気の抜けた声が聞こえ、セイラは壁に掛けた時計を見上げた。
「もう定時か……」
『はい、上がるとこです』
『電話ですか? もしかして彼女!?』
『そう彼女』
「彼女じゃない……」
電話越しに清田の好奇心旺盛な声が聞こえた。聞き捨てならない言葉が聞こえたのでしっかり否定させてもらう。
レイトはからからと笑うと、スピーカーにしたようだ。
『あ、セイラさん! 昨日顔色悪かったけど大丈夫ですか?』
清田の明るい声に笑みがこぼれる。身体はだるいが、元気を分けてもらえたような気がした。
「うん、だいぶ楽になったよ。……キヨちゃん、昨日は本当にごめんなさい。帰り遅くなってない?」
『全然余裕ですよ! むしろ残業代もらえるのでラッキーです』
『お前セイラさんだからそう言ってるんだろ。点数稼ぎ乙ー』
『いや別に!? 誰に対してもあぁいう対応しますけど!?』
『うるせー。さっさと帰れや』
『お疲れっしたー!』
清田が帰る気配がし、レイトがスマホ越しにため息をついた。
『セイラさぁん……。年下の男に思わせぶりな態度取っちゃダメですよ。特にキヨはセイラさんのことを狙ってたヤツなんですから。いつ再燃するかどうか……』
「だって、本当に申し訳なかったし……」
『俺が妬けるからやめてほしいんですよ……』
思わず押し黙った。彼が思わせぶりなことを言うのは今までもあったが、心臓がはねたのは初めてだった。
久しぶりに店長のことを考えていたせいか。気が合うし人間として好きだと思っていたが、恋愛感情ではなかったと思っていた。
『体調はどうです? 昨日の帰りがけ、顔死にかけてましたけど』
彼の軽い口調に現実に引き戻された。猫背になっていた背筋を伸ばし、スマホを持ち直す。
「見られちゃった?」
冗談めかして答えると、レイトの笑い声が響いた。
『はいバッチリ! おまけにヘコんでたでしょ? そんな落ち込まないでくださいよ~。大ごとにならずに済みましたし』
「うん……。昨日の件は皆のおかげ」
『そうそう。セイラさんは完璧主義のケがありますから、もっと俺らのこと頼ってくださいよ。気ぃ張りすぎです』
「どんだけ人のこと見てんのよ……」
苦笑いして首をかくと、レイトはふふんと笑った。少し得意げだ。
『セイラさんのこと、心配なんで。俺の前でくらい、泣いていいんですよ。抱きしめてやるから』
人前で涙を見せたのは、店長が最初で最後だ。社会人になってからは。
前の会社を辞める時、それを伝えた店長の前で涙がこぼれた。
彼は笑顔で”大丈夫大丈夫”と何度も肩を叩いてくれた。
『天木さんが決めた道なんだから俺は止めないよ。でも、これだけは約束してくれ。次の職場では、自分を犠牲にするような働き方はしないと』
店長の真剣な声に顔を上げると、彼は涙ぐんでいた。
『天木さんが幸せであることを願ってるよ。もしいつか再会したら、笑顔でお互いの近況を話そう』
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