推しのおじさんにガチ恋しない 第七話
夏の暑さに慣れた頃、真夏本番と夏休みがやってくる。
ゆいなたちの夏休みというわけではない。子どもたちだ。
「ほら、おねえちゃんにありがとうって言って」
小さな女の子を連れた母親が、足に隠れる娘を前に出そうとする。
少女は恥ずかしがって顔だけのぞかせている。ゆいなのことを上目遣いで見つめると、小さな声で”ありがと……”とつぶやいた。
舌足らずな声が可愛らしい。ゆいなはしゃがむと膝を抱え、小首をかしげた。
「こちらこそありがと! また来てね」
少女はコクッとうなずき、はにかむと今度こそ隠れてしまった。
母親がすみません、と苦笑交じりに頭を下げる。ゆいなは笑顔で手を振った。
「またぜひいらしてくださいね!」
ゆいながお辞儀をすると、母親は少女の手を引いた。
その後ろ姿を見送ろうとすると、少女がゆいなの方に振り返った。”バイバイ”と恥ずかしそうに手を振っている。
「またね!」
ゆいなはとびきりの笑顔で手を振り返した。少女は母親の足に頬を押し付け、歯をみせた。乳歯が抜けたばかりなのだろう。前歯に歯一本分の空間があった。
「中野ちゃんは接客うまいな~。やっぱりカフェ部門が向いてるんとちゃう?」
「そんなことあるかもです~」
「よう言うわ!」
赤いベレー帽とネクタイに白いシャツ、黒いスラックスと茶色のエプロン。ゆいなと同じ格好をしたおばちゃんがゆいなの肩をはたく。
今日のゆいなは、会社のカフェで働いていた。
コーベ支店ではこの時期になると、社員が交代でカフェで接客を行う。夏休みに入って入客が多くなるので、おばちゃんたちの手伝いに入るためだ。そしてたまには社外の人とふれあうため、でもある。
「中野ちゃん、子どもの扱いもうまいやん。なぁ木野ちゃん」
「えぇ、本当に」
おばちゃんの横にやってきたのは木野。おおよそゆいなたちと同じ格好をしているが、ベレー帽はなく黒いベストを着用している。理由は笑えるほどベレー帽が似合わないから、だ。
お互いに着替え終わった姿を見た時、ゆいなが隠そうともせず吹き出してしまったくらいだ。
同時に木野の珍しい姿を拝めて胸が苦しい、と思わずひっくり返りそうになった。
「中野ちゃんはすごいね」
木野に笑いかけられたゆいなは、顔を押さえてその場にしゃがみこんだ。地面にめりこむ勢いで。
「うぐわぁぁぁ推しに褒められたぁ……! やっぱり推しのカフェ店員姿てえてぇ!」
「朝から何言うてんねんこの子は。お客さんの前やで、しっかりせえ」
おばちゃんに頭をつつかれたゆいなは咳払いをしながら立ち上がった。
「きょ、今日は推しのことで悶えるのを我慢するつもりだったんですよ……でも……サービスシーンがありまくりで耐えられません!」
「気持ちは分かるけど暴走し過ぎや! 修行やと思てシャキッとせんかい」
ゆいなは思い切り背中を叩かれ、気合いを入れられた。
「木野ちゃんを見習うてみぃ。冷静に席にご案内しとるわ」
おばちゃんは腕を引き、ゆいなの視線を移動させた。いつの間にか木野は、来店したおばあさん四人をボックス席に案内していた。
「本日はご来店誠にありがとうございます。八月からはこちら、冷製パスタのフェアを行っております。レモンを使った爽やかなものから、生ハムをぜいたくにたっぷりとのせたジェノベーゼなどがございます。かぼちゃの冷製ポタージュもおすすめですよ」
おばあさんたちはメニューの写真を見て、まぁおいしそうだのどれも食べたくなっちゃうだのと楽しそうだ。
木野が最後に卓上のベルを指し示すと、通路側に座ったおばあさんが彼の手を軽くさわった。
「私たちよう来るんやけど、見ない顔やねぇ。いつから入られたん」
「言われてみればほんまやわぁ。こんな男前さん、初めて見た」
「そんな……僕なんて大したことないですよ」
木野が謙遜するとおばあさんたちが色めき立つ。年甲斐もなく頬を染め、キャーキャー言い合っている。
「ええ男やわぁ! 明日も来てまいそうや!」
バシッとたたかれた木野は苦笑いしながら一礼した。
ボックス席の賑わいにゆいなは手を合わせ、興奮気味におばちゃんのことを見た。
「さすが私の推し! おばあちゃまたちがメロメロじゃないですか!!」
「木野ちゃんやからな。毎年この時期はあぁいう現象が起きてんねや」
おばちゃんは鼻で笑い、なぜか得意げだ。
「これであそこの席は六千円越えやな……この調子で明日も……」
「売上!?」
大事なことではあるが生々しい。ゆいなは引いているが、おばちゃんの目の奥ではお金が舞っている。
その後も木野は女性客の接客を回され、値段が高めなフェアメニューにプラスしてデザートの注文も受けて売り上げを伸ばし続けた。
一方のゆいなは、親子連れの客の相手を任されて忙しなく動き回っていた。
料理を作ったり運ぶのはおばちゃんたち。頑丈そうな腕でフライパンを振るったり、料理をのせたお盆を持ち上げている。
途中からゆいなも料理を運ぶことになったが、大きな皿の料理は一度に二つしか運べなかった。おばちゃんたちはお盆も使って同時に三つは運ぶ。
「すごいなぁ……」
「慣れやで慣れ。あと中野ちゃんはもっと食べな。そんな細っこい腕じゃまだまだやで」
サラダを運ぶゆいなの前を、大きな皿を器用に手首にのせたおばちゃんが通り過ぎる。ファミレスでよく見るヤツだ……と、ゆいなは目を輝かせた。
彼女が厨房前に戻ってくると、一際料理を運ぶのが上手なおばちゃんが声をかけてくれた。
「無理して何かある方がアカンわ。ファミレスと違ってウチはスピードは求めてないねん。ここに来るお客さんもそれは分かってはるから」
彼女は昔、席数が多くて従業員が少ないファミレスで働いていたと話した。
「フランチャイズのファミレスだったんやけどな、本部がケチだったんや。人件費を削りたいからギリギリの人数でしか回したらアカンっちゅうねん。その分、一気に入客があったらキッチンはてんやわんやになるわ、簡単なデザートすら提供時間がめちゃくちゃ遅くなんねん。短気なお客様やったら店員を怒鳴りつけたり、子どもは待てへんから泣き出したり。地獄絵図やったで」
「ファミレスなんか特に必死ですよね。どこも従業員不足だと言いますし」
ゆいなの的確な言葉に彼女は”せやで”とうなずく。
「従業員が少ないから社員たちは休みの日にも出てきたりな。売上が少なければ自分のシフトをまるごと休みにして無給で働いたり……。ひどい時は人を何人か採用したら本部から雇ってる人間が多いとか言われるんやで? どう働けっちゅうねん。私らに休みなく働けってか。そんなんだから人が新しく入ってもすぐに慣れとスピードを求められるから辞めていくばっかで……悪循環やったわ」
「大変でしたね……今はやめてこちらに入ったんですか?」
彼女は首を振ると、曖昧にほほえんだ。
「やめたってより、店が無くなったんや。従業員が集まらずその内に売り上げも落ちてな。店が潰れた直後に、今はもう辞めたけどここで働いていた人が誘ってくれたんや」
「えー! 尚更大変だったんですね……お店ごとなくなってしまうなんて……」
「その頃は近くの店舗がどんどん無くなってったんや。ま、潰れて当然やったと思うで私は。皆無理して働きよるし、何より本部が頭おかしいねん。私はラッキーやったし、店長もやっと解放されてよかったんとちゃう。会社に残るかと思いきやあっさりやめてな。故郷に帰って今は結婚して新しい仕事をしとるらしいから」
そう語るおばちゃんの顔は優しいお母ちゃんの表情をしていた。店長はきっとおばちゃんよりも若いのだろう。
ゆいなもほほえむと、晴れやかな横顔に問いかけた。
「このお店では楽しく働けてますか?」
「もちのろんやで! ここは皆いい顔で働いてはるし、何よりお客様がええ人ばかりで感動したわ。決まった席じゃないと嫌とかドリンクバーだけ頼んでパソコン広げて会議を始めたりカードゲーム大会を開催したり勉強をするバカは家でもできるやん、って話やんな。ここを拠点にして出入りするアホもネズミ講とマルチの勧誘をするクソも料理と一緒にレモンを寄越せっちゅうわがままババアもいいひん! 後お前はポッカ〇モン持ち歩けや!」
早口で長文の悪口を言い終えた後にカッカッカと高らかに笑う彼女に、ゆいなは頬を引きつらせた。
ここで接客業を経験して楽しい! と感じている自分は幸せ者だ。ここは環境が良すぎるのだろう。
このおばちゃんが今は幸せそうで何よりだ。そして同時に、お店では店員に失礼のないようにしようと心に決めた。
休憩時間になったゆいなはベレー帽を取り、木野と共に休憩室へ下がった。
時刻はいつの間にか15時。あと二時間働いたら定時だ。
二人は冷たいカフェオレを片手に椅子に座る。立ち仕事なんて普段は縁がないから足がパンパンだ。
「夏休みだから学生さんが多いですね」
「本当にね。皆若いよね……」
そうですねとは言いづらい。
ゆいなはハハ……と弱い笑い声を返した。
「中野ちゃんは学生時代にアルバイトは?」
「しましたよ、そりゃ。遊びたかったのでお小遣いがほしくて。多少は学費の足しにもしなきゃでしたし」
「そうなの? えらいね」
「姉がそうだったんです」
姉、という単語にゆいなの顔が引きつる。
仲が悪いわけではない。姉はゆいなのことを可愛がり過ぎるので辟易しているのだ。
「木野さんはごきょうだいはいらっしゃるんですか?」
「ううん。俺は一人っ子」
「へー! じゃあすごく愛されたんじゃないんですか?」
ゆいなが身を乗り出すと、木野は肩をすくめた。
「おじいさんとおばあさんならともかく、両親はどうだろう」
「あ……海外に行くことが多いご両親ですか」
それなら植物園に行った時に軽く聞いた話だ。その時の記憶がよみがえってくる。
彼は”別に今はなんとも思ってないけど”と前置きをして話し始めた。
「子どもの頃は両親とコーベに住んでいたんだけど、アシヤで過ごしたことの方がよく覚えてるよ。小学校に上がるまではあの広い庭で、おじいさんとおばあさんと庭いじりをした。散歩に行ったり、遠出をしてカブトムシをつかまえたりしたな」
「こんな都会でカブトムシ!?」
「この辺じゃなくてもっと山の方ね、クヌギの木を探すんだよ。クワガタもたくさんいたよ」
これくらいの大きさ、と木野は手で表してみせた。
「二人のおかげで植物が好きになって、学生時代はずっと園芸委員会に入ったり、草花に関する係になったな」
「今の木野さんがすでに出来上がっていたんですね!」
「かもね。大学を出てから県外で働き出したんだけど、数年後にはおじいさんとおばあさんが病気になってしまってね。二人が心配でこっちで仕事を探すことにしたんだ。あの家に住所を移して、家と土地を俺が譲り受けることになった。父がそうした方がいいって言ってくれたんだ。俺の方がこの家のことを知ってるからって」
親代わりになってくれていたのであろう、木野の祖父母。彼らの話をする木野の横顔は懐かしそうで寂しげで。ゆいなの心もキュッとつまる。
しかし、ゆいなのことを見た木野の表情は、悲しみを微塵も感じさせないものだった。
「ちなみに両親は今、北海道に住んでる」
「北海道!」
「ずっと住んでみたかったんだって」
「海外出張が多かったんなら、海の向こう側を選びそうな気がしますけど……そんなことはないんですねぇ」
「俺も全く同じことを思ってた。でも日本がいいんだってさ」
両親のことを語る木野は、しょうがないなぁというような顔をしていた。
休憩室でついつい身の上話を聞かせてしまった。
ゆいなはずっとおとなしく聞いてくれていた。
その流れでウチに皆で遊びに来ないかと誘おうとしたが、ゆいなはさっさと仕事に戻ってしまった。
木野も彼女の後について店先に戻ってきた。
店内は落ち着いたのか、空席が目立ってきた。
席を片付けたり、洗い物をするおばちゃんたちも普段の八割くらいの速さで手を動かしている。
ゆいなはと言うと、デザート作り担当のおばちゃんの元でホイップクリームを絞っている。
厨房を覗き見ると、フルーツパフェを作っているらしい。フルーツが好きと言っていた彼女は、色とりどりのカットフルーツを眺めてうっとりしていた。
木野はほほえむと背を向けた。
ゆいなが最近よそよそしい。そう感じたのは、植物園でデートをした後からだ。
話すときに目が合わない。行きつけの居酒屋で会うこともない。
彼女とタイミングが合わないだけかと思っていたが大将と女将によると、ゆいなは一ヶ月ほど顔を見せていないらしい。
その割には木野の推し語りは相変わらずで、むしろひどくなったような気がする。花を手入れしている時に話しかけられるし、彼女の親戚の庭の様子もよく教えてくれる。
避けられている、と思うには彼女に話題にされたり話を振られることが多い。
しかし寂しかった。心の距離が縮まったと思っていた。
ゆいなが木野の手にふれたあの夜。あれがすべてを物語ったと思っていた。だが、彼女がそのことについて話題にすることはなかった。狸寝入りをしていた自分からは言及しづらい。
どうしたものか……と悩んでいる木野は、意外な人物と知り合うことになった。
次の日は木野だけがカフェで働くことになった。
ゆいなは瀬津の元で展示会の準備。西も入れて三人で、小規模ではあるが出展することになっている。
「木野さんお疲れ様でーす。カフェの制服お似合いですね」
「やぁ篠山さん。今日は一人?」
「いえ、あとから中野ちゃんが来ます。展示会の準備に一生懸命で」
ゆいなの名前を出したしのがニヤケている。どうやら彼女には、ゆいなとの微妙に離れた心の距離のことはバレていないようだ。
「木野ちゃん、あんたもついでに休憩して。篠山ちゃんとご飯食べといで」
「いいんですか?」
「今日は暇そうやし、今の内にな」
ということで木野はしのと昼食をとることにした。二人は日替わりランチを頼んだ。
木野がカフェでの仕事、しのが部署での仕事の話をしているとおばちゃんが人を連れてきた。
「木野ちゃん、篠山ちゃん。お客さんやで」
「こんにちは」
そこには、ゆいなの面影がある女性が立っていた。長い髪と落ち着いた表情は、ゆいなが年齢を重ねたらこんな感じなんだろうな、と思わされた。
その後ろには彼女と同じくらいの背丈をした男が一人。短い茶髪で、きりっとした目をしている。
「初めまして。中野ゆいなの姉のまりなです」
「中野ちゃん……の、お姉さん!?」
「はい。こちらは夫の光茂です」
「義妹がお世話になっております」
二人はそろってお辞儀をした。
まりなはゆいなよりも高めの声の持ち主だ。目はゆいなとそっくりだ。
「今、妹のゆいなに似てると声をかけて頂きまして。そしたらゆいながお世話になっている方がいらっしゃると伺ったのでご挨拶を、と」
「そうでしたか……こちらこそ中野ちゃん────ゆいなさんにいつも助けられております」
木野は立ち上がると二人に向かって頭を下げた。向かい側でしのも同じようにあいさつをした。
せっかくだからぜひご一緒に……なんて話をしていたら、"げっ"という上品とは言えない声が響いた。
「姉ちゃん……シゲにい……」
「あっ! ゆいなー!」
ゆいなが固まっていると、まりなが甲高い声を上げて妹に抱きついた。
「ちょ、やめてよ! うるさいし!」
「会いたかったわゆいな! オーサカの我が家に来てくれへんからこっちから来てもうたわ!」
「来るにしてもなんで会社なの! アホなの!?」
「ゆいなンとこの会社のカフェ、前から来てみたかってん」
先ほどの落ち着いた様子はどこへやら、まりなはゆいなの顔を見つめて最上級の笑顔を浮かべている。
ゆいなはまりなの腕からするりと抜けると、しのに向かって両手を合わせた。
「ごめんしのちゃん! テイクアウトして部署で食べることになったんだ……瀬津さんも西さんも大変そうだから」
「そっか……残念だけどしょうがないね」
「え、そうなん!? ゆいなとご飯食べたかったぁ……」
「姉ちゃんは人目を気にしろ!」
ゆいなは頬ずりしようとする姉を押しのけた。
彼女は振り返るとしのと木野に頭を下げた。
「騒がしくてすみません……二人のことは放っておいて大丈夫ですから」
「いやいや。今から一緒にご飯食べるとこよ?」
「え!? 姉ちゃん、シゲにい! 余計なこと話すなよ……」
ゆいなは念入りに二人に言いつけると、レジ前へ走っていった。
ゆいなは瀬津からもらったというお金で日替り定食を三つ買うと戻っていった。しつこく姉夫婦に釘を刺してから。
まりなと光茂は冷たいパスタを注文し、それぞれ届くと手を付け始めた。控えめな会話を添えて。
食事を終えると、おばちゃんたちからミックスジュースのサービスをしてもらった。
このミックスジュースは注文を受けてから様々な果物をミキサーにぶち込んで作る。木野も作っている様子を見せてもらったことがある。
優しい甘さと味わいを楽しんで落ち着くと、まりなは木野としのにほほえみかけた。
「職場でのゆいなはどうでしょうか」
ゆいなが現れた時とは違い、落ち着き払った様子だ。
木野は普段のゆいなのことを思い浮かべながら口を開く。
「よく頑張ってくれてますよ。富橋からたった一人で来たのに臆することなく、周りにもすぐになじんでいました。こちらの篠山さんはゆいなさんの先輩にあたりますが、二人はとても仲がいいんです」
「まぁ……! ゆいなと仲良くしてくださってありがとうございます」
まりなは手を組むと嬉しそうに、しのに笑いかけた。そんな仕草もゆいなによく似ている。
しのは力強くうなずくと、ミックスジュースにさしたストローから手を離した。
「ゆいなちゃんと一緒にいると本当に楽しいです」
「そうおっしゃって頂けて嬉しいです! ちなみにですが……」
まりなは声を小さくすると、横に座る夫と目を合わせた。光茂は困ったようなほほえみでうなずく。
意を決したのか、まりなは木野としののことを交互に見た。
「ゆいながどなたかとお付き合いしている、なんてご存知でしょうか?」
「……ごふっ」
唐突過ぎる問いかけに、木野は不自然なタイミングで咳き込んでしまった。
しのは小声で”木野さん~……?”と、脇腹に人差し指をねじ込んだ。
二人は夫婦に背を向けると小声でささやき合った。
「……最近どうなんですか木野さん」
「どうもこうも……相も変わらずですが」
「デートしたのに!? 行きつけが一緒なのに!?」
「何かあれば中野ちゃんから君に言うでしょうよ……」
「それもそっか……二人して中学生みたいな恋愛しやがって」
「突然罵倒すんのやめてくんない?」
二人は神妙な顔つきを装うと、再び夫婦と向かい合った。
「私たちは聞いたことありませんねぇ……。ゆいなちゃんが何か言ってたんですか?」
「いえ、何も。妹は大学生の時以来、恋愛にはどうも億劫になっているようなんです」
まりなはため息をつくと頬に手を当てた。
ゆいなが恋愛に億劫? そんなことは初めて聞いた。
しかし、ゆいなが彼氏がどうこう言われた時に曖昧な笑みを浮かべていた理由が今なら分かる気がする。
「ゆいなちゃんは大学生時代に辛い恋をして……僕たちに相談するほどだったんです。普段はめったに連絡してこないのですが」
「辛い恋、ですか……」
「高校生の時から付き合っていた彼氏と大学が分かれ、遠距離恋愛になってしまったそうなんです。その時に浮気をされ、妹は傷ついて……。まだ心に引っかかってるのかな……」
まりなは自分のことのように悲しい表情でうつむいた。
「いい感じの男性と知りあっても恋愛関係に進めないようなんです。次第に”推し”という言葉でごまかすようになりました。富橋にいた頃も想いを寄せられた男性がいたそうなんですが、断ってしまったようで」
「推し……?」
「何言ってんだって話ですよね。好き、という感情に進めないのか、本当に見ているだけで充分なのか……」
木野は思わずしののことを見た。しのもまた木野のことを見上げ、小さく指をさしていた。
ゆいなは展示会の準備の資料作りのため、瀬津の席でパソコンに向き合っていた。
彼女の物よりちょっといいパソコンだ。キーボードの叩きごちがなめらかで癖になる。
あるファイルを開こうとしたらパスワードの入力を求められた。ゆいなが使ったことがないファイルだ。彼女はパソコンから顔を上げた。
「瀬津さん、これのパスワードを教えてほしいんですが……」
瀬津は木野のデスクでポスターに両面テープを貼っていた。その隣では西が、ポスターを吊るす道具を持って来て組み立てている。
「それならパソコンの後ろに付箋がある!」
立ち上がってのぞき込むとびっしりと付箋が何枚も貼られているのが見えた。カラフルな付箋でなかったら封印のお札かと勘違いしそうだ。
「いっぱいくっついてるんですけど!?」
「展示会用、ってのを探してみてー」
「も~……」
適当に何枚かの付箋をはがすと、パソコンの後ろに落ちている紙の存在に気が付いた。くしゃくしゃに丸められたそれは、配線の間でほこりをかぶっていた。
妙に気になって拾い上げ、紙を広げた。
それは人事異動表。こんな時期に……? と思っていたら、見逃せない名前が書いてあることに気が付いた。
(なかのゆいな……中野ゆいな!? 私じゃん。あ、ここに来たばっかの時のか)
ゆいなはそれを瀬津に差し出した。
「瀬津さん、これ。シュレッダーでいいですか?」
「あ……どこでそれを……」
瀬津が震えながら指をさすので、もう一度目を通した。
「パソコンの後ろに落ちてましたよ。ちゃんと整理整頓断捨離しなきゃダメじゃないです……か?」
よく見ると日付は約一か月前。木野と植物園に行った頃だ。
「え……富橋支店行き……?」
「あ……あぁー…………」
思わず読み上げて瀬津のことを見ると、彼はやっちまった……と顔を押さえてうなだれた。
「は? えぇ!? どういうことですかこれは! 初耳初見ですが!?」
ゆいなの大声に西が顔を上げた。瀬津の頭越しに様子を伺おうとしている。
瀬津は目元を手で覆った。そのまま木野の椅子に座ると、深いため息をついた。
「君が出てから忙しくなったんだってさ……だから富橋支店に慣れている君を呼び戻したいんだと」
「え……」
こちらに来てから早五ヶ月。
会社にもコーベとアマの街にも慣れたというのに。
もうずっとこちらに住んでいたい、とも思っていた。
あけこ、しの、という家族とも親友とも呼べるような存在もできた。
瀬津や西だって大事な会社の仲間だし、居酒屋の大将と女将も外せない存在だ。
そして誰より────木野。
いつも優しくて穏やかで、笑いかけてくれる彼が頭の中の大半を占めている。いや、そんな堅いものではない。
(木野さんと離れたくない……)
ある時から心の中は木野のことでいっぱいになってしまった。
もっと彼のことを知りたいし、また二人でどこかへ出かけたい。
しかし、気持ちにブレーキがかかってしまった。長年の呪いだ。
『中野ちゃん』
木野にそう呼ばれる度、彼にほほえみかけられる度、彼への想いは膨らんでいく。本当はもうはちきれそうだった。
しかし、この感情にある二文字の名前をつけることが怖かった。
木野は瀬津に、いつもの居酒屋に呼ばれた。
のれんをくぐると、上司の男はすでにいた。彼の前にはお冷だけ。珍しく人が来る前から呑んでいない。
彼は手を組んで額を支え、肘をついて神妙な雰囲気を醸し出している。
大将と女将に視線で問うと、二人はそろって肩をすくめた。
「あのー……瀬津さん? お待たせしました」
声をかけて横に座るが、彼は沈黙したまま。
女将が木野におしぼりとお冷を持ってくると、瀬津が静かに口を開いた。顔は伏せたままだ。
「……中野ちゃんに異動の話がバレた」
「えっ異動? 俺も初めて聞いたんですけど」
「二人をくっつけるために異動を断り続けてた」
瀬津は顔をガバッと上げると木野に人差し指をつきつけた。
「あの性格だ、中野ちゃんは気を遣って富橋に戻ることを簡単に決めちゃうと思う。つーことではよ付き合え! はよ決めないと木野君は一生独身だぞ!」
『中野さんはどうしたい?』
『富橋支店が忙しいなら仕方ないですよね……』
「一生独身て……そんな今さら」
呆れた顔でお冷に手を伸ばすと、瀬津に手をはたかれた。
「結局のとこ君たちどうなのよ。なんの報告も受けてませんけど!」
「何かあったところでなんで報告するんですか……」
「おもしろそうだから」
木野は頭を抱えた。しのと言い、瀬津と言い。なぜこうも人のことで楽しそうにしているのか。
「木野ちゃん、植物園デートから次の約束はしてへんのよね? 中野ちゃんも顔見せに来ぇへんしなぁ」
「一時はいい雰囲気になったと思ってたんだけどなー」
とりあえず、と二人の前に生ビールが二つ置かれた。
乾杯をすると、大将が"まぁなんか適当に作るわ"と言って後ろの冷蔵庫を開けた。
木野はビールに口をつけると、瀬津にゆいなの姉夫婦に会ったことを話した。
「何!? 今後のために僕も話したかった」
「今後のためって……」
「妹さんが20離れたおっさんと付き合いますけどいいですよねって」
「……普通の人なら反対するんじゃないんですか」
「あの中野ちゃんのお姉ちゃんだろ? いけるっしょ」
瀬津はいつもの調子を取り戻してきたらしい。大口を開けて笑っている。
大将から串揚げや、鶏肉を野菜と炒めたものを出された。いつもならそれらとビールを呑むのが至福の一時だが、今日は違う。ジョッキを傾けた木野は目じりに力を入れ、視線を下げた。
この話を簡単に他人に話してはいけないだろう。
しかし瀬津には、ゆいなのトラウマについて話しておきたかった。彼がジョッキを置くと、瀬津は木野のことを見ながらおとなしく聞いていた。
「……だから、あんな話を聞いた後に言えることなんてありませんよ」
「あんないい子を差し置いて浮気なんてとんでもなぇヤツだな……」
瀬津は歯ぎしりをすると机の上に拳を置いた。
丸メガネを押し上げると、”分かった”とつぶやいた。
「好きだった人にそんなことをされたら恋が怖くなるよな……。それなのに推しって存在ができてあんなにいきいきとしてる」
「中野ちゃんは立派ですよ……そんな過去があったのに微塵も感じさせませんから」
「年数もだいぶ経ってるからだろ」
瀬津は木野の背中をバシバシと叩くと、親指を立ててへたくそなウインクをしてみせた。
「推しのおかげであんな元気なんだ。その推しと付き合ったらもっともっとパフォーマンスが上がるんじゃね!?」
「あんた人の話聞いてた?」
木野は机の上で思わずガクッと姿勢を崩した。
瀬津は女将が持ってきた焼酎(ロック)を一気に喉に流し込んだ。真っ赤な顔で後ろにぶっ倒れそうになったが、木野の肩に勢いよくつかまった。
「”好き”を”推し”でごまかしてんだろ? それなら木野君のことが好きってことじゃん! やっぱりお前ら付き合え! 口説けー!」
瀬津に肩をガクガクと揺らされ、木野は”や、やめ……”ととぎれとぎれにしか抵抗できなかった。
(こんな時になんてアシストしてんだ……)
女将に恨めし気な視線を投げると彼女は、”次ウチに来るときは中野ちゃんも連れてくるんやで”とほほえんだ。
大将もうんうんとうなずき、歯を見せて笑った。
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