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レイヤーさんの社内恋愛 第五話

 千波がアナウンスで軽い暴言を吐いた次の日。

 千波は他の部署へ書類を届け、岳の部署を戻る途中だった。前の部署を苦い顔で通り過ぎようとしたら、部屋の出入り口から壁が出現した。

 千波が一番嫌いな三十代の先輩だ。腕を組み、アゴを持ち上げて千波のことを見下ろしている。

「昨日は随分な返事で。二つの部署を掛け持ちして調子に乗ってるんでしょ?」

「掛け持ちって……。自分で望んだことじゃないんですけどね」

 反論したことが先輩のカンに触ったらしい。キッチリ描かれた眉がピクッと寄り、チークが濃い頬が引きつった。アイライナーの濃い目元が吊り上がる。

「こっちの仕事が嫌だって泣きついたんじゃないの? がっくんと仲いいんでしょ?」

「いいえ全く。香椎さんが勝手に関わってくるだけです」

「────よくそんなことが言えるね!?」

 バンッ! 先輩が部署の壁を勢いよく叩いた。引き結んだ口元は震え、アイライナーの濃い目元が吊り上がる。

 怒号と派手な音がしたにも関わらず、部署の者は誰も出て来ない。見ようともしない。

 優しい上司はそもそもおらず、少しは話の分かる先輩たちは聞こえないフリで仕事に熱中している。だが、手元は落ち着かない様子で震え、妙にまばたきが多い。顔色も悪かった。

 三十代の先輩の仲間はこちらをニヤニヤとした表情でうかがっていた。小さく動かす口でまた悪口を言っているのだろう。千波のことか三十代の先輩のことか、どちらなのかは分からないが。

 千波は突然の激しい音に肩をビクッとさせそうになったが耐えた。かっこ悪い姿をこんな女の前で、ゲスな連中の前で見せたくない。

「なんであんたなの!? 私の方ががっくんと一緒にいる時期長いのに……。大して可愛くもないし仕事もできないのになんであんたががっくんと仲良くできるの!?」

 少し目を見開いてしまった。悲鳴にも似た告白にココロがざわつく。

 あぁ。この女は岳のことが好きなんだ。

 千波のことを勝手に愛称で呼び、頭をなでようと腕を伸ばす彼の顔が思い浮かぶ。やはりあの男はモテるのだ。

 それにしてもなんて言われようだろう。しかも内容が内容だ。妬みを露わにして八つ当たりされるなんて。

 三十代の先輩がイライラしてる時、怒りの矛先は常に千波に向いていた。部署で千波が一番、その先輩に嫌われていたから。仕事の出来も完璧ではなかったから。

 これがいつもだったら静かに怒りをためこんでパソコンを睨んでいたが、今日は黙り込むことはできない。

 千波はスカートのポケットに手を入れ、ある物を取り出した。

 それに映った自分を見た先輩は顔を歪ませた。

 千波が掲げたのは手鏡。最近、こうしてのポケットに忍ばせて持ち歩いている。

 部署内はざわつき始めたようだ。視線をいくつも感じるようになった。それに構わず、千波は口を開いた。

「40も近くになって小娘に嫉妬ですか? 歳下の前で恥ずかしくないんですか? あんなことばっかして、大人げないことを言ってるからこんなひどい顔になっていくんですよ。結婚なんて生まれ変わらないとできないんじゃないですか」

 最後のは心にグサッと刺さったらしい。正直最後の言葉は勝手に口から飛び出たものだ。

 先輩は実際に杭が刺さったかのように顔を強ばらせ、胸を押さえる。

 ぶっちゃけ気持ち良かった。いつも思っていることを言える日が来るとは。お局連中にも届いているだろう。視線を横にやると、彼女たちはその場にいるのも恥ずかしいのか、気まずそうな表情でうつむいていた。

 千波は手鏡を下ろし、冷たくその様子を見ていた。

「だまれえぇぇぇ!!!」

 不意の金切り声に千波は、今度は肩をビクつかせた。

 怒りに力をまかせ、大きな足音で先輩が近づいてきたと思ったら、頬に痛みが広がった。油断していた体がよろめき、床に手をつく。

「痛っ……」

 頬を平手打ちされた。

 思っていたよりかなり痛い。ぶたれた頬を押さえ、顔を上げてにらみつける。

 先輩はまたしてもひどい顔で千波のことを見下ろしていた。次は自分の番だと言わんばかりに。立場逆転だ。

 悪あがき、というべきか千波は頬を押さえていた手をどかし、淡々と口を開いた。

「……知ってますか? 最近廊下にも防犯カメラが設置されたんですよ。あなたの今後が楽しみですね」

 さっきまで怒りで真っ赤だった顔が真っ青になる。防犯カメラというワードにはやはり、効果があったらしい。

「────若名ちゃん!」

「……先輩」

 岳の部署の先輩が小走りで現れた。真っ青な顔で固まっている四十路には目もくれず、千波に駆け寄る。

「どうしたの? なかなか戻って来ないから皆心配してるよ」

「すみません……」

 千波が謝ると、先輩は頭を振った。

「別に謝ることじゃないよ。サボってたワケじゃないでしょ? さー戻ろー戻ろー」

 先輩は千波の腕を引いたが、立ち止まってくるりと振り向いた。その表情は見事なほどにこやか。

「若名ちゃんの元先輩。年甲斐もなく可愛こぶって……あ、実際可愛くないですけど。もっと身を慎んだらどうですか? あなたのお仲間にも伝えておいてください」

 なめらかな口調で辛辣なことを並べる、先輩は再び歩き始めた。最後に部署の中をのぞきこんでから。

「イェーイ!」

「い、イェーイ……?」

 元いた部署が見えなくなると、先輩は千波と両手を合わせた。

 そのまま手を組んで下ろすと、先輩は満面の笑みで歯を見せた。

「だってあの女にあれだけ言ってやったんだよ? 喜ばないなんてないでしょ」

「……それもそうですね」

 先輩は鼻息混じりに後ろ手を組み、楽しそうに歩いている。

 岳の部署に行くようになってからこの先輩と特に仲良くなり、お局連中のことを愚痴ることも多々。初めてのよき理解者の一人だ。

 彼女が現れるまでのことを話すと、慌てて給湯室に連れて行かれて冷たい氷を渡された。

 頬は冷たいが心はほっこりと暖かい。ニコニコとしている先輩につられてか、千波も表情を綻ばせた。

「え。四十路の先輩にケンカ売ってきたぁ!?」

「ん~……はい」

「若名さん、おとなしそうでなかなかやるね……。そのうち僕もやられそうだな……」

「大丈夫ですよ、恨んでない人には何もしませんから」

 先輩と戻ってきて今までのことを話すと、上司は戦慄した。

 頬を叩かれたことは予想以上にいたわられた。

「うんわ大丈夫かよチナ……。俺が颯爽と現れて助けたかったわ」

「フン。香椎の出番なんてないよ」

「先輩が来て下さって良かったです」

「よく言った若名ちゃん」

「あ~……本人から言われると心折れる……」

 胸を押さえて床に沈みこんだ岳に、その場にいた者たちはそろって笑う。

 上司は千波のしたことに震え、苦笑いしか浮かばないようだが。

「香椎君はどこ行ってたんだい? 社長室に用事って……」

「あぁ、実は」

 岳は上司の言葉にスっと立ち上がり、千波の肩に手をかけた。

「チナ、このままウチにおいで。社長から許可はもらったから」

「……はい?」

「何言ってんの? すごいいいことが聞こえた気がするけど」

「そうっす。すごいいいことです。どうするチナ」

 夢のような言葉だ。あの地獄にも等しい部署を抜け出せるチャンスが来るなんて。

 いつもだったら岳の手を素早く振り払うところだが、嬉しい誘いに浸ってしまった。

 返事は迷うことはない。ずっと願ってきたことなのだから。

 千波はうなずき、岳のことをまっすぐに見つめた。こんなに真剣に彼と見つめ合うのは初めてだった。

「こっちに来ます」

「即決か! 早いな!?」

「だってこっちの方が居心地いいですから。向こうに居続けるのはごめんです」

「そーかそーか……。ウェルカムトゥーこっちの部署!」

「よろしくお願いします」

 千波がぺこりと頭を下げると、上司は満足そうにうんうんとうなずいた。周りからも拍手が起き、皆口々に歓迎の言葉を送った。

 ”頑張ろう”、”よろしく”、”いつでも頼ってね”。当たり前の言葉かもしれないが、どれも嬉しかった。こんな自分でもやっと居場所を見つけることができたようだ。

 前の部署でこんなに歓迎されたことなんてない。毎年のことだし、と周りは冷め切っていた。まともに自己紹介もされなかった。

 今この瞬間、千波は初めて本当に意味でこの会社に仲間入りできたと実感が湧いた。

 あたたかい反応に泣きそうになり、先輩が肩を抱いてくれる。

 その様子をほほえましそうに見守ってた上司だが、突然ハッとして口元を押さえた。

「こういう大事なことは僕が言うべき所だったんじゃ……! 香椎君もいつの間に社長に交渉してんの!」

「ま、ここは俺がいい所を持っていってちゃんちゃん、ということで」

 岳がチロッと舌を出してウインクをすると、今度は上司が床に沈んだ。

 うなだれる様子に皆笑った。電話対応をしていた者も、様子を伺ってほほえんでいる。

 やさしい世界の部署だ。ここでなら何年だって働きたい。千波は会社で初めて、声を出して笑った。

 その様子に岳が驚きほほえんだが、本人は気づいていない。

 笑いすぎたせいか、いつの間にか目の端には涙がたまっていた。

 その日の帰りは、先輩と駐車場に向かった。

 新しい部署で特に良くしてくれる先輩だ。彼女には初対面で抱きしめられた。

「若名ちゃん、改めていらっしゃい。私のことは今日から千秋ちあき先輩と呼びなさい」

「名前イケメンですね」

「ありがと。何気若名ちゃんと名前似てるでしょ。ところで彼氏いるの?」

 こんな話の流れになるなんて。千波は逃げ出したい気持ちになりながら、頭を横に振った。

 その瞬間、先輩────千秋は目をカッと開いた。

「それはいかん! こんな可愛いコに彼氏の一人や二人がいないなんて!」

「……いや。二人いる方がいけないです。てか可愛くないです」

 千波は一歩ずつ下がっているが、千秋がじりじりと近づいてくる。千波が逃げていることに気づいてるらしい。

 その目は瞳孔が開きそうなほどかっ開いている。

「いや可愛いから。好きな人はいる? 出会いは? 若いんだから恋して女磨かなきゃ」

「いや……あたしそういうのはいいんで……」

「ダメだよそんなんじゃ! 歳くってから後悔するよ!? 幸せな恋を掴んであっちの部署の売れ残り共にぎゃふんと言わせてやろうぜ!」

「それはいいかも……」

「よし! とりあえず今日はこれで! お疲れ!」

「お疲れ様です」

 千秋は手を振って去っていった。嵐のような人だが楽しい先輩だ。彼女にならどこまでもついていきたい。

 一人になった瞬間、静けさに襲われて少し寂しくなる。一人で過ごすのは今まで当たり前だったのに。

 歩きながら今日あったことを思い出していると、後ろから走ってくる足音が聞こえた。

「チナ!」

 千波に駆け寄ってくるのはあの男しかいない。しかも愛称で。

「……やっぱりあんたですか」

「えっ。俺のこと、気配でわかるようになった!?」

「違います断じて!」

 プイッと横を向くと、岳が隣に並んだ。

「……先輩によくあれだけ言ったな。この会社で案外、チナが一番強いかもな」

 昼間のことだろう。なんて返したらいいかわからない。今頃になって”やらかした……”と冷静になったせいだろう。

 それには答えず、千波は先ほどされた質問を彼にもすることにした。

「香椎さんって彼女いるんですか?」

 一拍、二拍。岳は千波のことを見つめると、息をのんで口を押さえた。

「何!? 俺の恋愛事情気になっちゃった!?」

「そういう意味じゃないし……」

 予想してたといえばしてた反応。千波は冷たい視線を向け、あからさまにため息をついてみせた。

 こんなことを聞こうと思った自分がバカだ。こいつに聞くべきではなかった。

 顔を別の方向に向けると、岳が遠慮なく二の腕をつついてきた。バシッと払うと、彼はニヤケながら顔を近づけてきた。

「なんだよ~。もしかして俺のこと考えちゃってた?」

「ンなわけ」

「照れんなって。チナにこれだけアタックしてんだぜ? 彼女なんているわけないだろ」

「……嘘ばっか」

「いっつもそれだな!? 俺、本気だよ? なんで嘘だって思うわけ?」

「だって……今までこんなことなかったから。引っかけてやろう、って考えてるんじゃ……」

「バカヤロー! 俺そんなことしないから!」

 わりと本気で怒られた気がする。千波が肩を小さく上げたのが分かったのか、岳は頭をかいて謝る。

「ごめん、びっくりしたよな……」

「いえ、あたしこそ……」

「でも。そろそろ俺の気持ちに答えてくれていいんじゃない? 他のヤツに気持ちが揺らぐ前に」

 真面目な声音。甘い言葉。頑なに拒んできた彼に心が揺らいできているのは事実。

 しかし、ここですんなり受け入れたら自分の負けな気がする。

 それに本当に彼が好きなのかは自分でも分からない。

 ”車、こっちなので”と、今は逃げることしかできなかった。

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