ショートショート。のようなもの#46『リビングにいる…』
俺は、我が家へ帰るなりリビングの真ん中でぐったりと倒れている奴を見て、ポツリとつぶやいた。
『え?なんで?なんでこんなところにこんなやつがいるんだよ』
なんでこんなやつが我が家のリビングで寝てるんだ?
俺は妻と二人で結婚生活を送っているんだぞ、俺たち以外のやつがそんな簡単に入れるわけがないんだ。
もっとも、ゴキブリやネズミといった害虫害獣が出るならまだしも、なんでこんなでっけぇ熊がこんなところにいるんだよ。
それもめちゃめちゃ鼾をかいて寝てやがる。
恐らくだが、時期的に察するにこいつはうちのリビングで冬眠をしてやがる。
確かに、近年熊や猪といった野生動物が人里へ降りてくるというニュースをよく目にしていた。
しかし、それは一時的に餌を求めて出没するだけだろう。
なんでぐっすりと冬眠までしちまうんだよ。まったく、いい迷惑だよ。
熊の口から垂れたヨダレが、先日のボーナスで買ったばかりの絨毯を湿らせていく。
俺は、妻が仕事から帰ってくる前に急いで連絡を入れた。
もし、晩御飯の材料に鮭でも買ってこようものなら、こいつが目を覚まして喰らいついてくるに違いないからだ。もちろん蜂蜜も危険だ。
と言ってもここ数日、妻とは毎日のように喧嘩をしていて夕食なんか作ってくれるわけもないのだが。
しばらくすると妻から連絡が返ってきた。
「バカじゃないの。ついに頭がおかしくなったのね。私に帰ってきてほしくないならはっきり言いなさいよ。そういうところが嫌いなのよ」
俺は弁解をしようとしたが、何から伝えていいかわからずにスマホをポケットの中へと滑らせた。
熊の寝姿を見つめ始めて数時間後、扉がガチャと開いて妻が帰ってきた。
俺は、その音を聞いて振り返るなり人差し指を立ててシーッと妻を凝視した。
妻は、「そんなところで突っ立って何してるの!?」とでも言いたげな表情を見せたが、俺越しにリビングで爆睡する熊を見つけるなり顔が凍りついた。
「…え?なによ、これ」
「…そういうことだ」
「え?ほんとだったの?」
「見りゃわかるだろ。この状況がウソに見えるか?」
「いや、でも…え?…だってそんなところに熊が…」
「そうだよ、熊だよ。熊が我が家のリビングで冬眠してるんだよ」
「…冬眠って。で、どうするのよ?」
「え?」
「え?じゃないわよ。だから、この熊をどうするの!?」
「あー、いや、どうするもこうするも…どうしようもないだろ」
「そんな…。そうだ、保健所に連絡しましょうよ」
「バカ、そんなこととっくにしたよ。でも町中に害獣被害が出てるときにそんなイタズラ電話はやめてくれ!って相手にしてもらえなかったよ」
「何よそれ。じゃあ、あなたが何とかして退かせてよ」
「そんなことできるわけないだろ。こんなデカイ図体してるんだぞ。もしも上手く動かせたとしても途中で目を覚ましたら一瞬でやられちまうよ」
「だってあなたが田舎暮らしがいいって聞かなかったから、この町へ住み始めたのよ!」
「大きな声を出すな。熊が目を覚ますだろ」
「…なら、もう引っ越しましょ」
「賃貸だぞ、こんなやつ残して出ていったら退去費用をいくら取られるかわからない」
「いいわ。なら、私が出ていきます」
「待てよ、ここの契約者は君の名前だぞ」
「そうだった、あなたの稼ぎが少ないから…。あーあ!ほんと嫌になっちゃう!」
「だから大きな声を出すなって…!」
「あなただって大きな声を出してるじゃないの…!」
「…とにかく、俺たちに今残された道は、今まで通りここで暮らすしかないんだ。ただし大きな声を出さずに静かに、穏やかに…。」
──それから5ヶ月間、俺たちはなるべく物音を立てないように、熊が目覚めないか二人で寝ずの番をしたり力を合わせながら声を荒げることなく静かに暮らした。
目の前に居座る、この獣からお互いの命を守るために、今までにないくらい協力し合い静かに穏やかに…。
そして、長い長い冬が終わり、窓の外で鶯のさえずりが聞こえ始めたある日の朝。
共に仕事が休みだった俺たちは、ここ数ヶ月の睡眠不足に加えて春の陽気に誘われてか、寝そべる熊の隣で二人で身を寄せながらぐっすりと眠っていた。
そんな柔らかな日差しがカーテンの隙間から差し込む中、ついにやつが目を覚ました。
初めに俺が異変に気づいた。
足元で大きな塊がゴソゴソと動き始めたのだ。
「まさか!」と思い目を覚まし、視線を向けると確かに熊が動いている。
数ヶ月前にここに来て以来初めて動いているところを目にした。
不思議な話だか、このときに初めて本当に「冬眠だったんだ」と確信した。
俺は慌てて隣で眠る妻の肩を軽く叩いた。
そう言えば妻の寝顔をこんなに直視したのは、いつ振りだろう…。
付き合い出したころを思い出したが、すぐにそんな呑気なことを考えてる場合ではないと思い、もう一度肩を叩いて妻を揺り起こした。
「…ん?なによ?」
「起きたんだよ」
「は?」
「だから起きたんだよ」
「そらあなたに起こされたんだから起きてるんでしょ」
「違うよ、俺じゃなくて、熊だよ。熊が冬眠から目覚めたんだよ」
「…え!」
彼女は熊に目をやり、ヒァっと小さな声を上げた。
「静かに、とにかく静かに…!」
熊は、前足だけ立ち上がりお座りのような状態になったかと思うと、あーっとあくびを一つして、ゆったりとお尻を突き出したりして長期の睡眠で凝り固まった躰をほぐしている。
「どうするの?」
「そのままだ。下手に逃げたりしたら襲われるかもしれない。そのまま、じっと目を閉じて熊が出ていくのを待つんだ。耐えるんだ、もう少しの辛抱だ。大丈夫、たまには俺を信じろ」
「…うん、わかったわ。あなたの言う通りにする」
それからどれくらい時間が経ったのかわからない。柔軟体操を終えた熊は四つん這いになり俺たちのほうを見向きもせずにゆっくりとベランダのほうへ向かっていく。
数日前から、こういう状況を見越して窓は開けっ放しにしている。
のっそのっそと巨体を揺らしながら、ときに全身をぶるぶるさせながら、熊は大きな窓に挟まりそうになりながら外へと出ていった。
その瞬間、この数ヶ月間の緊張の糸が一気に切れたかのように俺は絨毯へぐったりと倒れ込んだ。
「はぁ…、助かった~!」
直後に襲ってきた睡魔に抗えずに遠のく意識の中、うっすらと開けた目に飛び込んで来たのは荷物をまとめて玄関から出ていこうとする彼女の姿だった。
強烈に重い瞼を必死に持ち上げながら、何とか声を振り絞り「ちょっと待てよ」と声をかけようとした。
そのとき、玄関の扉が開いて見知らぬ若い1人の男が入ってきた。
「…あら、来ちゃったの?家へは来ちゃダメって言ってたでしょ、もう~。…いや、これは違うのよ…一人暮らしとは言ってたんだけね、この人は…」
妻は、急な訪問者に狼狽しながらも、上目遣いを駆使して何とかその場を誤魔化そうとくねくねしていたが、それを気にも止めずに入って来た男はリビングの真ん中でぐったりと倒れている俺を見るなり、ポツリとつぶやいた。
『え?なんで?なんでこんなところにこんなやつがいるんだよ』
二人は、まるで害獣を見るかのようにこっちを見つめてやがる。
~Fin~