【Dear my Amnesia】第五話
第五話 魔王の子
天使長の訪問により時間が押された兄妹は、すぐに朝食を済ませた。
礼拝堂のステンドグラスが割れてしまったため、その日のミサは中止となった。
そしてまたすぐに仕事へ向かったトームを見送った後で、ナイツェルがまたオフィーリアに怒鳴った。
「何で神父様にあんな嘘吐いたの!? それも魔王の子供なんて助けて!」
「ご、ごめんなさい……」
ただでさえ多感な時期の妹を監禁してしまっている自覚があるトームは、その為オフィーリアにはとても甘かった。
ヴィギルから悪魔の気配が一切感じられない事も手伝って、兄は実際に正体を見た天使の言葉よりも妹の言葉を信じてしまったのだ。
とは言え勝手に勘違いをしたのはトームの方であるし、ヴィギルからも父が魔王だという話は聞いていなかった。
しかしそれが言い訳にならない事も知っていたオフィーリアは、ただ項垂れて謝罪を述べるしかなかった。
「……ま、待ってくれ」
その時、客室からヴィギルが顔を出した。神父も居なくなり、この天使はシスターに文句は言っても頭は上がらないと気付いて出て来たようだった。
途端にナイツェルは姉貴分を庇って威嚇するが、臆病な悪魔は怯えながらもまた口を開いた。
「その……、窓を修理するんだろう? 俺の所為で割れたようなものだし、怪我もこの通り治った。君達さえ良ければ、手伝わせてくれないか?」
幼い天使は素っ頓狂な声を上げた。まさか悪魔から、それも魔王の子からそんな殊勝な事を言われるとは思ってもみなかった。
しかし首を横に振ると、彼女は吠えるようにヴィギルに掴みかかった。
「そうやって油断させて、お姉ちゃんを食べるつもりだな!? 騙されないぞ!」
「ナイちゃん、止めなさい!」
慌ててオフィーリアが止めに入り、悪魔はまた怯えてドアの後ろに隠れてしまった。
犬のような唸り声を上げるナイツェルだったが、突如はっとして上を見上げた。
釣られて二人も見上げるが、そこには古ぼけて少し錆びたシャンデリアがぶら下がっているだけだった。
「千年樹様……!?」
驚く天使の言葉にオフィーリアは納得した。そしてぽかんとしている悪魔に、母代わりの精霊がナイツェルにテレパシーを送っているのだと説明した。
具体的な会話の内容までは分からなかったが、心外そうに抗議している天使の発言から、この悪魔を見逃すよう宥めている事だけは分かった。
終いに悲しそうなナイツェルの表情が一変してヴィギルを睨みつけると、バカと一言幼子らしい暴言を吐き捨てて飛び去ってしまった。
「ナイちゃん、窓を直す手伝いに来てくれたんじゃなかったの!?」
また慌ててオフィーリアがそう叫ぶと、此処へ来た目的を思い出したのか、飛び出た窓から幼い天使がひょっこりと不貞腐れた顔を出した。
そしてまたヴィギルに近付くと、指を差して偉そうに言った。
「千年樹様が、お前はもうちょっと此処に居ろって」
「え、でも……」
「一日しか経ってないのにいきなり教会から居なくなったら、それこそ自分が悪魔だって言っちゃってる事になるだろ!? 神父様からも怒られるし、お前の所為でお姉ちゃんがあの天使長に殺されちゃうかも知れないんだぞ!?」
そこまで言われて、ヴィギルは何も言い返せなくなった。
今は掃除されているが、床に飛び散っていた血の量から一日で治るような怪我だとは到底思われないだろう。実際、ヴィギル自身も一晩で完治するとは思ってもいなかった。
仕方無く了承すると、ナイツェルはまたぐいと悪魔に顔を近付けて圧をかけた。
「いいか、天使長があんな奴じゃなかったら、お前なんかすぐ退治したんだからな! ぼくよりお姉ちゃんと一緒に居られるからって、お姉ちゃんに変な事したら承知しないんだからな!」
キャンキャンと子犬の如くがなり立てる幼い天使にすっかり気圧された悪魔は、ただ黙って頷くしか出来なかった。
そして漸く、窓の修理に取り掛かる事になった。
翼の無いオフィーリアは当然梯子が必要となったが、危険だからとヴィギルとナイツェルが説得すると、茶菓子の用意をしに二人を置いて厨房へ向かってしまった。
その間に仲良くするように言い付けられてしまったが、結局天使と悪魔は黙々と修理作業を始めたのだった。
「……その、悪魔の言葉なんか信用出来ないかも知れないが、本当に迷惑をかけるつもりは無いんだ」
幼子とは言え敵対する天使と二人きりで協力する羽目になった悪魔は、このどんよりとした空気に耐え切れずに会話を試みた。
しかしナイツェルは不機嫌な顔をしたまま、小さい手を一生懸命に動かしている。
ふとヴィギルの頭にある疑問が思い浮かんだが、それを真正面から訊いたところで答えが返って来るとも思えない。
そこで悪魔は、意地悪だろうかと口籠りつつ言い方を変えた。
「信用出来ないなら、君が俺を監視してくれても構わない。俺は抵抗するつもりは無いし、君が此処に居るなら彼女だって喜ぶだろう」
その時漸くナイツェルの手が止まり、こちらを振り返った。その表情は、今にも噛みついてきそうな程怒りに満ちていた。
しかしすぐに泣き出しそうな落ち込んだ表情に変わり、また修理作業に戻った。
「……ぼくだって、お姉ちゃんとずっと一緒に居たいよ。神父様だってそうさ。でも悪魔は悪さするし、ぼくもこの近くに悪魔が来ないように見張ってなきゃいけないんだ」
ナイツェルの説明に、やっとヴィギルは合点がいった。
どうやらこの付近は、先程話に出た千年樹とやらとこの幼い天使の加護によって、悪魔が近寄れないようになっているらしい。
しかし昨晩は天使長がこのヴィギルを祓う為にその加護ごと教会の窓を破壊してしまったため、偶然にもヴィギルは教会に入り込めてしまったようだ。
それだけならまだトームとナイツェルでどうにか出来たものの、何故か教会に飛び入ってからヴィギルに悪魔の気配が一切感じられない。自分で気配を消す事も可能だが、教会に居るならば尚更隠し切れない筈なのだ。
その為トームはヴィギルの正体に気付けないまま、ナイツェルも対応のしようが無く千年樹の慈悲に従う羽目となってしまっているのだ。
「……お前、本当に悪魔? 魔王の子供?」
終いにナイツェルは、訝しげな顔でヴィギルに問うた。
一瞬だけ驚いた様子だったが、すぐに悲しそうな表情で目を伏せた。
「違ったら……人間だったら良かったのにと、そう考える事はよくある。自分でも魔王の子か疑わしかったが、父にいつも面汚しだと詰られていたから、それも事実なんだろうな……」
そこまで聞いて、ナイツェルも漸くこの悪魔に害は無いかも知れないと思い始めた。
しかし、やはり天使として人間は護らなければならない。そこでもう一つ、嘘を吐けない悪魔の性質を利用して問い掛けた。
「本当に、一度も人間を食べてない?」
すると、ヴィギルの顔がどんどん青褪めていった。その様子を見てナイツェルは一瞬身構えたが、その表情は隠し事がバレたと言うよりは嫌な記憶が反射的に映し出されたように見えた。
「……あ、兄が空腹に耐える俺を見兼ねて、人間を連れて来て……俺は嫌だと言ったんだ……。なのに、拘束されて……無理矢理っ……!」
「分かった、もういいよ! ……ごめんなさい」
流石に同情の念が沸いた天使は、慌ててその告白を止めさせた。
結局悪魔はシスターが戻って来るまで、何も言わずに小さく震え続けていた。
そしてオフィーリアが二人を食堂へ呼び寄せると、ナイツェルが気まずそうな顔で姉貴分を見た。
「どうしたの?」
「……あいつ、本当に悪い奴じゃないんだね」
その言葉を聞いて感動を覚えたオフィーリアは、パッと顔が明るくして妹分の頭を撫でた。
食堂で茶菓子を囲った頃には、ナイツェルは既にヴィギルに心を開いていた。彼が悪魔である以上警戒は怠れなかったが、危険視する程の者ではないと判断したのだ。
しかし一日の間で大好きな姉と自分よりも長い時間傍に居られるという事を考えると、やはり幼い天使はこの悪魔の事をどうしても好きにはなれなかった。
対してヴィギルの方は、ナイツェルの態度が少し優しくなった事には気付いていた。だが何処で彼女の逆鱗に触れて退治されるかまでは分からず、結局慎重になるしか無かった。
それでもオフィーリアの目には二人が最初の頃と比べて友好的になったように見えて、歓喜の笑みを浮かべざるを得なかった。
「お姉ちゃん、こいつが何かしたらすぐに呼んでね!」
「大丈夫だよ。でもありがとうね」
休憩を終えて窓の修理を完了させると、やはりナイツェルは教会を去らなければいけなかった。
ヴィギルが何もしない事は分かっていたが、便宜上姉貴分にそう言って牽制しておく必要があった。それはオフィーリアも分かっていたらしく、笑顔で妹分の小さな背中を見送った。
臆病な悪魔はそれまで一言も喋らなかったが、天使の姿が見えなくなると静かに口を開いた。
「……すまない。俺が来た所為で、とんでもない事になってしまった」
シスターは目を丸くしてヴィギルを見た。彼は下唇を噛み締め、涙を堪えているような顔をしていた。
天使長のホッフェルが冷酷な性格をしている事は身を以て思い知らされたが、悪魔を匿う者は天使に与する人間であろうとも容赦しない程の執念深さは予測出来なかった。
「悪魔など所詮、神から不要と捨てられた存在だ。あれ程人間に生まれ変わる事を望んでいたのに、みっともなく生に縋り付いてしまった所為で君を危険に晒してしまった。あの時逃げずに殺されておけば……!」
ヴィギルが言い切る前に、オフィーリアが彼の手を取って強く握り締めた。
突然の、それも予想外の行動に臆病な悪魔は思わず引き下がろうとする。
「オ、オフィーリア!?」
「……やっと、名前を呼んでくれた」
シスターは柔らかく微笑んでいた。そしてヴィギルの目をじっと見つめて、ゆっくりと言葉を続けた。
「ギールさん、私の代わりに憶えておいて欲しい言葉があるんです。母が、千年樹様が教えてくれた言葉なんです」
困惑していたヴィギルの瞳がはっと見開き、彼女の口元を静かに映していた。
「”神は不要なものなど創らない。生きとし生けるもの全てに意味がある。迷ってしまうのは、その意味を見つけられていないだけ”。だから私、この病気も怖くないの。きっと何か、大切な意味がある筈だから……」
悪魔の目が再び見開いた。そしてそこが潤み始め、ヴィギルは空いた手で目元を覆った。
そこから落ち着きを取り戻すまで暫く経ったが、オフィーリアは何も言わずに微笑んだまま待っていた。
顔から手を放すとヴィギルは彼女の手を握り返し、自分の心臓に押し当てた。
流石のシスターも驚いたような顔をしていたが、悪魔は誓いを立てる騎士の如く彼女の前に跪く。そして決意に満ちた目でオフィーリアに顔を向けた。
「分かった。俺は今日から、君の備忘録だ」