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【Dear my Amnesia】第四話

第四話 天使の長

 朝日が差し込んで目が覚めたヴィギルは、すっかり傷が癒えている事に気付いた。
元より悪魔の回復能力は高いが、それでも一晩で完治する傷ではなかった筈だ。教会の神聖な力によるものだろうか。
だがヴィギルはそれ以上考える事はせず、傷が癒えた今の内に此処を出て行こうと決心した。
これ以上悪魔が教会に居座れば、万が一天使に見つかってしまった際に、親切してくれたシスターにまで迷惑がかかってしまう。それだけは耐えられなかった。
 意を決して窓を開けたヴィギルの前に飛び込んで来たのは、突風に飛ばされて目を回しているオフィーリアよりも幾分も幼い少女の顔だった。
悪魔は叫ぶ間も無いまま癒えたばかりの身体で受け止め、勢いに耐え切れず後ろに倒れ込んでしまった。

「ギールさん、朝食を持って来ましたよ」

その時ノックをして入って来たオフィーリアが、その様子を見て血の気が引けてしまった。
何故かベッドの外に居る悪魔の上にぐったりとのしかかっているのは、幼い天使ナイツェルだった。

「……ナイちゃん!?」
「あれ、お姉ちゃん?」

オフィーリアの声で幼女は我に返ると、真っ青な顔で自分を凝視して震えている悪魔の腹の上に居る事に気付いた。
ナイツェルは暫く状況を把握出来ずに固まっていたが、理解した途端に大声を上げようとして姉貴分に口を塞がれてしまった。

「騒がないで、お兄ちゃんが来ちゃう!」

耳元でそう言われ、オフィーリアがこの悪魔を匿っている事に気付いたナイツェルはまた混乱してしまった。
 ヴィギルはまた別の天使が窓から来るのを恐れて、幼女から離れると反射的にまたベッドの中へ飛び入った。
妹分が大人しくなった事を確認したオフィーリアは、ゆっくりと手を離してナイツェルの目をじっと見て事情を話した。

「あのね、この人は誰も襲ってないの。悪魔が嘘を吐けないのは知ってるよね? それなのに他の天使達に襲われて、酷い怪我をしたんだよ。可哀想でしょ?」

その説明で漸く理解したナイツェルだったが、未だに納得はいってないようだった。
そしてベッドで震える悪魔を一瞥すると、怒った顔を姉貴分に向けた。

「でも、良い人とは限らないって千年樹様も言ってたでしょ? そもそも、どうやって神父様からこんな奴を……」

言い終わる前にノックの音がして、開いたドアからトームが訝し気な顔をして入って来てしまった。
朝食を持って行っただけにしては時間がかかり過ぎていると思ったらしく、ナイツェルが居る事に気付いて眉間に皺を寄せた。

「こら、怪我人の部屋で何を騒いでいるんだ! 早く出なさい!」
「でも神父様、こいつ……」
「こいつじゃなくて、お姉さんだろう! 傷に障るから早く出るんだ!」

今度こそナイツェルの思考は完全に止まってしまった。そしてトームに手を引かれて部屋を出るまでの間、悪魔が隠れているベッドと必死の表情で手を合わせる姉貴分の顔を何度も交互に見ていた。

「私、先にこの人の包帯替えるね!」
「……出来れば早めに頼む。今日も仕事が押しているんだ」

とにかくヴィギルの様子が気になったオフィーリアは、兄が妹分を連れて出て行く直前にそう言った。
トームは少し呆れた様子だったが、やはり妹と食事をしたいが為に渋々承諾して部屋を後にした。

「ごめんなさいギールさん、大丈夫ですか?」
「……まさかとは思うが、あの天使が君の妹分か?」
「はい……。でも、ナイちゃんは良い子ですよ。話せば分かってくれると思います」

必死に弁明するシスターの回答に、悪魔は心底絶望した。そして早々に、この教会から逃げる必要があるという焦燥感にも駆られていた。
 兄に言っていた通りに包帯を替えようとしたオフィーリアだったが、ヴィギルの身体を見て傷がすっかり癒えている事に気付いた。

「わ、もう治ったんですね! 良かったです。やっぱり悪魔って、人間よりもずっと身体の作りが良いんですね!」
「……本当に、君にはすっかり世話になってしまったな。何も礼はしてやれないが、俺はもう此処を出る」

悪魔はこの機会を逃さず、すっかり話してしまう事にした。
シスターは悲しそうに目を見開いたが、ヴィギルの立場とトーム達の責務を考えれば、仕方の無い事だと分かってはいた。

「もう此処へは来れないだろうが、落ち着いたらこの教会に居たラシーと言う男について調べてみよう」

何も礼が出来ないまま去るのは癪だったため、せめてもの慰めにそうシスターに語りかけたその時だった。
オフィーリアの表情が曇り、困ったような顔で首を傾げたのだった。

「……ラシー? 貴方の弟さんですか?」
「え?」
「フラッセオさん、ですよね? 吸血型の……。この教会に居たって、どういう事ですか?」

ヴィギルは言葉を失った。彼女が患っているらしい健忘症は、自分が思っていたよりも深刻な状況なのだと理解した。

「……弟が此処に居た人間と同じ名だから詳しく知りたいと、君がそう言ったんだ。母が不治の病に倒れ、看病の為に帰郷したと言っていたよ」
「……ごめんなさい。私、憶えてなくて……」
「悪いのは病だ。君じゃない」

 悔しそうに下唇を噛み締めて俯くオフィーリアを見て、悪魔の先程の決心が揺らいでしまっていた。
ただでさえ憶えられる事が少ないと言うのに、使命の為と長らく彼女に寄り添ってやれない兄と妹分。
愛されている筈の彼女から滲み出る孤独感は、故郷に引き篭もっていた頃の自分のそれとよく似ている気がした。
 途端、ヴィギルの背中に途轍も無い寒気が走った。
この教会に押し寄せて来る気配にかつての恐怖が完全に甦ってしまった悪魔は、乱れる呼吸を必死に整えながらも布団に潜った。

「ギールさん、どうしたの!?」

慌ててオフィーリアが立ち上がるも、臆病な悪魔はただ震えながら小さく「嫌だ」「来るな」と暗示のように何度も呟くだけだった。
 その時、玄関の方から呼吸すら許されないような威圧感が押し寄せた。
それに押し出されたかのように、ナイツェルが部屋に飛び戻って来た。

「ナイちゃん?」
「静かに! お姉ちゃんは出て来ちゃダメ!」

只事では無い事に気付いたオフィーリアは声をかけるも、幼い天使は人差し指を立てて閉じたドアの隙間から礼拝堂を覗き込んでいた。
そこに居たのは冷や汗を流しつつも険しい表情をしているトームと、その向かいでにこやかながらも厳かに立っている白い八枚羽を持つ男だった。
 八枚羽は天使の中で最も高い階級である事を、以前オフィーリアは兄から聞かされていた。つまりこの何処か恐ろしい笑顔を向けている男こそ、天使長ホッフェルなのだとシスターは息を呑んだ。

「天使長様、態々このような場所に足を運んでいただき恐縮でございます」

 天使長の前で跪いた神父だが、その表情は一貫して強張っていた。
ホッフェルは片手でその堅苦しい挨拶を止めるよう指示すると、満面の笑みでトームの顔に近付いた。

「突然押し掛けて申し訳無い。実は昨日、この付近で魔王の子を取り逃がしてしまいまして。最強と名高い貴殿なら、既にその存在を察知しているのではないかと思った次第で」
「魔王の子……!?」
「ええ。三兄弟の次男で、名はヴィギル」

オフィーリアはつい上げそうになった声を抑えて、ベッドの中で震える悪魔をちらと見た。
トームも思わず顔を上げた。昨日は確かに大きな力を察知していたが、そこへ向かえない理由があった。

「確かに昨日、並々ならぬ者の気配を感じました。しかしその時には既に弱々しく、すぐに途絶えたので特段気にかける必要は無いものと判断致しました」
「それは貴殿らしくない。悪魔に強い憎しみを抱いているとお聞き受けしたが、死体の確認もされなかったと?」
「お言葉ですが、この教会も無事だった訳ではありません。虫の息だったであろう悪魔よりも、私は唯一の肉親を選んだまでです」

天使長に説明しながら、トームは昨夜破かれたステンドグラスの方を向いた。ホッフェルもそこへ目を遣ると、その窓は自分の術で割れた事に気付き長い溜息を吐いた。

「やれやれ、私の所為で悪魔を確認出来なかったと仰りたいので? 本当に奴が死んでいるなら結構だが、妹御に気を取られて己が使命を忘れておいでではないかな? 我々が何の為に貴殿等祓魔師に力を貸与しているのか、重々に考慮していただきたいものだ」
「……返す言葉もございません」

再び頭を下げたトームだったが、その表情はホッフェルへの怒りに満ち満ちていた。
しかし天使長は気にも留めずに辺りを見渡し始める。当の妹を探している事に気付いたナイツェルが、慌ててオフィーリアをドアから離した。

「……で、その妹御は? 一度もお見かけした事が無いが、昨晩怪我を負ったとでも?」
「いえ、昨晩怪我を負ったのは別の人間の女性です。妹はその看病を」
「その悪魔が人間の女に成りすましている可能性は?」
「そのような気配は感じられませんでしたが、貴方様方が貸し与えて下さったこの御力を疑っていらっしゃるのでしたら、ご自分で確認なさいますか?」

その時漸く、ホッフェルの眉が不快そうにピクリと動いた。
そしてトームを睨みつけると、また大きな溜息を吐く。

「少々鎌をかけてみただけですよ。此処に居ないと言うのならば結構。もし見つけた場合は、直ちに祓い報告をするように。いいですね?」
「……承知いたしました」

神父にそう命ずると、天使長は踵を返して教会を後にした。
 玄関の扉が閉まった事を確認したトームは怒りを抑えるようにして顔を手で覆うと、脱力したようにしゃがみ込み大きな溜息を吐いた。

「ナイツェル、塩だ。塩を持って来てくれ」

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不尽子
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