蜂と神さま

金子みすゞの詩で、『蜂と神さま』というのがある。

小さな小さな蜂から、神さまという存在にまで広がって、また小さな蜂に戻ってくる。何かの漫画の中で出てきて、漫画の内容は忘れたのにこの詩だけ覚えていた。

前回の「世界の中心で、愛をさけぶ」で話した自分中心の世界は、ここに繋がってくる。自分が中心というより、一人一人の中に、神さまがいるのだと。この神さまは、人間のイメージする偶像としての神さまではなく、心の声というものではないだろうか。

人間、偶然は必然であると気づく瞬間、つまり使命や運命、宿命などの大きな力が働いていると感じる瞬間は一度は経験したことがあるはずだ。これを感じ取り続けること、つまり自分の中にいる神さまの声に耳を傾け続けることが「生きる」という事なのではないだろうか。

中学生のころ、中途半端にダンスで外の世界を知っていたので地元の狭い世界の中にいるのが窮屈で、一人で何もできないのが退屈で、早く広い世界にいきたいと病んでいたころ、ずっとお風呂の中で「なんで生まれてきたのか」を考えている時期があった。生まれてすぐに死んでしまう赤ちゃんや虐待されて死んでいく子供の数、未だに戦争がある国。そんな風に世界は全く平等じゃないと気づいて自分だけの世界から視野をどんどん広げていったとき、今自分が平和で生きていることの方が不思議だと思ったことがあった。「これは完全に何かに生かされているんだな」と思った。

それで、今思うと本当にどうかしているとは思うんだけど、家の近くにある道路に繋がる坂道で、実験してたことがある。この坂道を自転車でブレーキかけずに下って道路に出た時、車に鉢合わせなければまだ生きろってことだ。鉢合わせて衝突して死んでしまえば、そういう運命だったってことだ。っていう実験。そこは狭い道路で車どおりが少ないから、その少ない確率の中で見事に当たったらさすがに死ぬ運命なんだろうなっていう訳の分からない中二病を発症して、しばらくブレーキかけずに坂道を下って道路を突っ切っていたことがあった。今思えば車側からしたらいい迷惑だし、運命を自分で試しに行く奴ってどんな奴だよって話なんだけど、何回試しても車が通ることはなかったので生きろってことだったんでしょう。おかげで?自分はまだ生きてていいのか!っていう確信が持てた。そして自分は間違いなく生かされているんだからちゃんと生きなきゃだめだと思って、「なんで生まれてきたのか」という問いに対する中学生なりの答えは、「それを見つけるために生きる」だった。これを導き出したときはまるで世紀の大発見でもしたかのように、母親に伝えたのをよく覚えている。

そんな大発見でもないから恥ずかしいけど、的を得ていると思う。「なんで生まれてきたのか」なんて生きているうちにはわかんなくてよくて、最後に死ぬときにこういう事だったのかなって少し納得できればいい。だから、生きているうちは考え続けなければいけないんだと思う。自殺してしまう人は、「なんで生きているんだろう」とか「なんで生まれてきたんだろう」って、疑問に思うことまでは良いことなのに、考え続けずに途中で自分で思考を止めてしまうからよくない。基本的には気持ちの問題なのだから、鬱状態なんて誰にでもあるし、死にたいって思う事なんて私だって全然あるけど、「病気だからしょうがない」って向き合わずに、思考を止めてしまうからよくないんだと思う。

世の中、思考する余地もなく、日を浴びることもなく死んで行ってしまう赤ちゃんもいれば、無差別の殺人犯によって急に命を奪われる人もいる。事故に巻き込まれることもある。十分気を付けていたのに、事故を起こすこともある。少し生まれた時代が違えば、国のために命を落とすことが正義だった。こんな風に自分の意志とは関係なしに命を捨てざるを得なかった人のことを思うと、今健康で生きている時間は確実に何かに生かされていて、その何かは自分の中の心の声、神さまなのではないかと思うのだ。という事は、自分が生かされているうちは、何が何でも自分の中の神さまの声に耳を傾き続けなくてはいけない。社会にひかれたレールに無意識に乗っているだけでは、生かされている意味がない。不平等に命を落としていった人たちの存在が無下になってしまう。

生かされているうちは、思考し続ける。自分の心の声に耳を傾ける。

世界の中心で、愛をさけぶ。

そしてその世界は、自分の中に。


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