世界の中心で、愛をさけぶ
色鉛筆の”はだいろ”を”うすだいだい”という表記にしたり、LGBTQなどの多様な性に対する無理矢理な理解してますアピール、女性蔑視に対する過敏すぎる反応、コロナ禍おける若者への目。
世の中、多様なものを理解しようという思考が先走りすぎて、逆に世界を単色化しているように感じるのは気のせいだろうか。なんでもかんでも違いを受け入れて手をつないで一緒になって歩んでいこう。そんな生ぬるくて薄いつながり、共通認識がどんどんひろがっている。差別を擁護しているわけでは決してないし、運動を批判するつもりもないけど、過敏すぎるのはなんでもよくない。
誰だって自分の中にマイノリティーの部分とマジョリティーの部分を持っているのだから、「あなたも私もみんな同じなんですよ」とか「世界中の人全員、みんな同じように平等に接してください。そうでなければ差別です。」ではなく、金子みすゞの『私と小鳥と鈴と』のように「みんな違ってみんないい」でいいのではないだろうか。「いい」があるという事は、「悪い」があるという事。「好き」があるという事は、「嫌い」があるという事。なんでもみんな同じ扱いに、可もなく不可もなく、好きでもなく嫌いでもなく。なんていう世の中にしてしまっては、「みんないい」ではなく「みんなどうでもいい」という愛のない世の中になってしまう。
LGBTQという多様な性を理解しよう。肌の色が違ってもみんな同じ人間だよ。女性にも男性と同じ権利を。ウイルスが広がらないように、みんなで一緒に家にこもらないとダメ。いや、別にどれも駄目じゃないし間違っていないんだけど、どうも気持ち悪い違和感がある。
もちろん多様な性のあり方を理解することは大切。知らずに自分の今の感覚だけが正しいのだと思っているのは、視野が狭い。だけど、「私全然偏見とかないからさ」っていう態度が私は気持ち悪い。なんで自分がマジョリティー側っていうだけでそんな上から目線になれるのかわからない。一見多様なあり方を許容しているようで、実はその違いをなかったことのようにしているように感じる。人間、「私知っています。大丈夫です」と思い込んでいるものは、それ以上学ぼうとしないものだ。だから、「知っています」「大丈夫、理解があります」ではなく、「よくわからないんだけど、教えて」のほうが良い。小さいころから身近にLGBTQという性のあり方があって、それが当たり前だった人なら別だけど、たいていの人はわからなくて当然だしテレビとかネットの情報だけでわかったような、理解したような気になるのもおかしい。性認識が見た目と同じで、異性を好きというマジョリティーの中でも好みは人によって全然違うし、好みが違う人に対して「全然わからない」といっても差別にはならないだろう。これと同じようにLGBTQの人たちに対しても、「わかります」「理解してます」ではなく、「わからない」という姿勢で良いんだと思う。わからないからはねのける、除外するというのは違うけど。
肌の色、男女平等に関してもそうだ。色鉛筆の”はだいろ”が原因で、もしかしたらいじめられた経験のある子がいるのかもしれないけど、だからと言って表記を”うすだいだい”にしたところで、何も根本的な解決になっていない気がする。学校というただ近くに住んでいたという繋がりだけで一つの教室に押し込められて、みんな仲良くしましょうね。とか、好き嫌いはダメですよ。ってどう考えてもおかしい。むしろ小さいうちにどんどん好き嫌いをしておかないと、大人になったときに自分が何が好きなのかもわからないようなサイボーグ人間になってしまう。誰かに嫌いと言われて悲しんでいる子がいるなら、あなたを嫌いという子がいるなら、逆に好きという子が必ずいるという事を教えてあげないとだめだ。学校というのは狭い社会で、外にいくらでも広い世界があるという事も。肌の色が色鉛筆の肌色と違うから、あの子がいじめられないように表記を変えよう。ではなくて、自分の肌の色を人と違うから嫌いと言ってきた相手に対して、「私は自分の肌の色が好き」「私もあんまりこの色好きじゃない」というように、「違う」からその違いをなかったことにして一緒のものにするのではなくて、「違う」からその違いをどのように思うのか、自分も相手も考えることが大切なんじゃないだろうか。小学生にそんなこと求めるのは無理と思うかもしれないけど、子供は大人が思っているよりも賢くてなんでもわかっているので、馬鹿にしちゃいけない。
男女平等。これも過敏になりすぎているように思う。男女平等なんて言葉が全く存在しなかった時代を生きてきた人に、急に理解のあるふりをしてくださいといっても、無理なものは無理。時代によって倫理観が全く違うんだから、わからない人に今の倫理観を押し付けて過剰に攻め立てるのは違うと思う。「女だから仕事を任せてもらえない」「女だからおとなしくしてろ」といわれる。「女だって一人で生活していける」。この認識を押し付けることが、逆に多様な社会を無下にしている。「女」が「女」にとらわれすぎてる。別に差別されたからと言って、女として戦うのではなく、一人の人間として戦えばいいのに。「女を馬鹿にするな」というから、「女はうるさい」と思われるのだ。まあもともと男女平等が浸透し始めていたゆとりな世界で生活してきたから言えることなのかもしれないけど。でもそもそも「男」も「女」も違うものなんだから「ここは好き」、「ここは嫌い」はあって当然だし足りないところは補って、足りなくてもあえてやりたい人は好きにやればいいし、無理に同じものにしなくてもいいんじゃないかと思う。
最近の社会の動きが気持ち悪すぎて長々書いてきたけど、何が言いたいかというと、「好き嫌いはちゃんと持つべき」。批評や批判は端から煙たがられるような社会だけれど、批評がなければ何がよいのかもわからない。好きも嫌いもちゃんと提示するべきだと思う。何が良いのか、何が正しいのかを一人一人が何もわからないような世界にだけはならないでほしい。自分の思う正しいが間違っててもいい。提示することが大切。じゃないと本能的な勘がどんどんなくなっていく。
自分中心の世界で良い。自分中心の世界を持っているのが自分だけでなく、周りの人もみんなそれぞれに自分中心の世界を持っているという認識があればそれでいい。一人一人が、自分中心に思考したり好き嫌いをちゃんと持つことで、世界のバランスが取れているような気がする。マクロの視点で言うならば、宇宙の中でそれぞれの惑星が自転しているように。自転をすることで惑星同士がぶつからずにバランスが取れているのに、この自転をやめて公転だけに身を任せてしまったら、惑星同士がぶつかって宇宙のバランスが崩れる。視点を戻して考える。もしこのまま”平等”や”なんでも正解”、”批評が悪”という風潮が広がって、世の中の流れが一方向に単一化していったら。凸凹なもの同士のバランスをとるという事と、凸凹をすべて排除して均等にするという事を一緒くたにしてはいけないのではないだろうか。
自分中心の世界というと、他人に関心がないと思われる。それは逆で、人それぞれ自転していて、違うものだから興味が湧くのだ。同じ速度で同じ方向にみんなで一緒に回っていては、自分のことも、他人のことも、やがてどうでもよくなっていく。
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