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『映画:フィッシュマンズ』

高校生の時、underslowjamsの『PHONETIC CODE』というアルバムにはまっていた時期があった。その中の一曲、”いかれたBABY”を聴いたときの衝撃といったらなかった。勝手にだけど日本のレゲエは夏!海!魂!みたいなイメージを持っていただけに、その永遠に霧の中にいるような曖昧でつかみどころのない感じ、怪しさに衝撃を受けた。

何においても、出会うときは出会うものなのである。

原曲は、「フィッシュマンズ」という奇妙なバンドだった。今まで知らなかったことの方が不思議な感じだったけど、その歳じゃなければ、自分で調べて出てきたという出会い方でなければ、聴き流してしまっていたかもしれない。能動的に出会ったからこそ彼らのつかみどころのないにその感じをもっと知りたいと思ったし、頭の中はずっと「!?」でいっぱいだった。

高校生の時は、言っても『空中キャンプ』と”いかれたBABY”を繰り返し聴いていただけだったから物凄く好きだったのかといえばそうでもないし、それだけで手一杯だったともいえるのかもしれない。何しろつかみどころがないのだ。何度も言うけど。「おしゃれだな」とか「声が色気あるな」とか「リズムがかっこいいな」とか「なんか熱く訴えてるな」とか、そういうものだけじゃない次元に彼らはいるような気がする。

それから何度も「フィッシュマンズ」を見直すタイミングを迎えた。その中で少しずつ、メンバーが何度も変わっていること、バンドが誕生した大学に自分が今通っていること、メンバーの一人は今スカパラにいること、そしてボーカルの佐藤伸治はもうすでに亡くなっていて直接声を聴くことできないことを知る。

メンバーと同じ大学で、その大学に今も存在するサークルの中でバンドが誕生しただけでも運命を感じるのに、加えて佐藤さんが亡くなった年に自分が生まれたという事実も捨て難い。あとは自分の中で「1966世代」って呼んでるんだけど、宮本浩次、斉藤和義、田島貴男っていう好きなミュージシャンに1966年生まれが多い現象に佐藤さんも加わってしまう事も、もう気にならずにはいられない。

そんな風に少しずつ無視できない存在になっていく中で、今回のタイミングがやってきた。『映画:フィッシュマンズ』の公開である。

ドキュメンタリーみたいな映画ってあまり好きじゃないし、変に”佐藤さんの死を悲しむみんな”みたいな感じだったらいやだなと思いつつも、何年もかけて無視できない存在になってしまっているわけだから3時間という少し長い時間と2500円という少し高いお金を払って観に行った。

結果佐藤さんに対するイメージも、曲を聴く時の気持ちもすごく変わった。主観的にこういう人なんだろうなって想像をするしかなかったものが、実際に関わっていた人たちの言葉を聞くことで立体的になった気がする。もっと奇想天外な言動をして、他とは一線を画しているようなカリスマ的存在なのかと思っていた。何を考えているのかわからなくて、誰にも心を開いていないような、孤高の存在なのかと思っていた。

実際は冗談をたくさん言っておちゃらけ、メンバーが一人ずつ脱退するたびに極限まで落ち込み、売れなければ悩んでもがき、海外でレコーディングとなればはしゃぎ、音楽に対しては人一倍ストイックに努力するような、案外わかりやすく素直な人だったのだろう。

本が好きで国立図書館の正社員になろうとしていたこと。リスをペットにするほど無類の動物好きなこと。暇さえあれば落書きをしていたこと。思考を文字によく書き出していたこと。出会う人を一目惚れさせてしまうほど人間としてもミュージシャンとしても魅力があるということ。創作には人一倍神経質で一人の空間じゃないと出来ないこと。少年のように純粋でありながらもどこか野良猫みたいな警戒心があるところ。映画に出てくるどんな佐藤さんの一面も好きだと思った。若くして亡くなるとどうしても神格化されてしまうけれど、そんな彼の人間臭さを見た気がした。

ノートに「売れたい理由」と「売れたくない理由」を両方書いて自分たちのバンドの方向性について考えていたというエピソードが印象的だった。「売れる」という事は誤解されるということでもある。佐藤さんは自分の作ったものが誤解されてまで売れてほしくないと思っていたのだ。

「自分のやっている音楽はそこまでみんなに理解されるものだとは思っていない。でも、誰かの人生を変えてしまうくらいの音楽をやっているつもりだ」

売れれば自分たちの音楽が変わってしまう気がする。だけどそもそも売れなければ誰にも聞いてもらえない。創作活動をしている人や表現者ならば一度は直面するこの問題に佐藤さんは誰よりも繊細であり、怯えていた。きっと誰と接するにも、神経質で丁寧な人なんだと思う。自分や自分の音楽が過大解釈されたり独り歩きすることを恐れて、自分の声が直接届く人との目の前の繋がりに極端に執着する。誤解を恐れて、むやみに本当の自分を見せずに世界を広げようとしない。そりゃあ、業界の世界じゃやってけないよなと思う。売れる人や大衆を動かすことのできる人って、人に対しても自分の生み出すものに対してもある程度無神経か、どこかで割り切ることができるか、上手く順応できる人だと思う。尖って見えるようなミュージシャンでも、売れるためにテレビ的に求められているそのキャラを演じているという事はよくあることだ。何もそれが悪いことではない。むしろそれも含めてその人の才能だ。だけど、それでも、私は佐藤さんみたいな不器用で繊細な人間が好きだ。嘘がないし、小さな自分の周りの世界を大切にするような丁寧さがすき。

フィッシュマンズについての想いを完璧に理解して文字に起こすことなんて一生無理なんだろう。これからも、いろんなタイミングでふと無視できなくなる時がくる。そのたびにきっと何かしら表現しようとするんだろう。

あと10年たったら完璧に理解できるのだろうか。いや、

"僕はいつまでも何も出来ないだろう"

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