見出し画像

幸せを彩る人

ここにこのまま雪が積もれば、私は無に帰ることができる。
すでに腐蝕が始まりつつある落ち葉の上に身を投げ出し、十一月の濁った空を眺めた。
死にたい、などと言う積極的な考えではなく、どちらかと言えば誰か消してくれないかな、さらって行ってくれないかなという他力本願な感情だった。
街が一望できる絶好の展望スポットであるこの場所は、頂上にたどり着くまでの道が整備されておらず急斜面が続く上に、自殺の名所と噂されていることもあり普段から人気がなかった。だから私は気分が重くなるとよくここへやって来た。自殺者の霊が私をあの世へ招いてくれるのではないかというわずかな期待もある。
色のない街。
 私が住むこの街には、そういう呼び名があった。
冬になると雪が積もり、それは半年もの間居座り続ける。次々と真新しい雪が降ってきては、薄汚れた灰色の雪の山の上に覆い被さる。
太陽の光は積もった雪で遮られ、寒々とした街角に吹き荒ぶ風は異様に冷たい。
まっさらな初雪こそ綺麗だが、根雪になればもうその輝きは失われる。
色のない街。
最初にこの街をそう表現した人はきっと、その人自身の瞳の奥が灰色をしていたのだと思う。今の私のように。

 黙って寝転んでいるのはさすがに体が冷えてきた。もう帰ろう、と服についた落ち葉を払いながら立ち上がった。
「あ」
 思わず声を上げる。目の前を、小さな白い虫が一匹、浮かぶように飛んで行った。
 雪虫だ。
 雪国では雪虫が飛び始めると二週間ほどで初雪が降る。彼らは雪の粒を背負ったような可愛らしい見た目をしているが、歩いているとコートや唇などに引っ付いてはその場で溶けるように息絶えていくため、処理が面倒でもあった。
幼い頃、手のひらに舞い降りてきた雪虫を撫でようとそっと触れたことがある。そして再び空に帰そうとしたとき、雪虫は宙を舞うことなく静かに地に堕ちていった。急いでしゃがみ地面を探したけれど、吹いてきた風にさらわれ消えていった。私は自分が雪虫を殺してしまったのだと思って泣いた。小さな命を奪ったという衝撃は、当時の無垢な私にはとても両手に抱えきれないほど重すぎた。
 なんて儚いのだろう。触れたら、消えてしまう。それはまるで幸せのようだ、と大人になった私は思う。
幸せは、手にした途端泡のようにぷくぷくとなくなってしまう。これが幸せなんだ、と気づいた瞬間、パチンと弾ける。夢から醒めるときの感じと似ているかもしれない。我に返ると、一人荒野に立たされている。そんな感覚だった。
不実な恋愛とそれに伴う自分の醜さを思い知った私は、その不条理さに立ち尽くし、社会に身を置くことが怖くなってしまった。幸せを意識すると全てがうまく回らなくなってしまう。それならば。
私は幸せに気づくことをやめた。
幸せに気づくことをやめると、自分が今幸せなのか不幸なのかもわからなくなった。そのかわり、大きく心を乱されることもない。
私は色のない街で、色のない瞳をしながら一生を終えるのだ。
最近は、そんなことばかり考えて生きている。

「ひまり」
 突然背後から低い声がした。山を下るため歩き出そうとしていた私は、驚いて振り向いた。
「……なんだ、雪虫か」
 声の主は、私の相棒の雪虫だった。雪のように真っ白な肌。熟れた果実のように紅い唇と、夜明け前の空のような深い藍色の瞳。地毛なのか染めたのかはわからないが、髪の毛までさらさらな白。
 雪虫は、人間だ。いや、実は妖怪だと言われても納得がいくほど人間離れした容姿をしているが、私が知る限り彼は誰よりも人間臭かった。風呂上がりには牛乳パックに口をつけて一気飲みするし、白けた恋愛映画で号泣する。第一、足が臭い妖怪なんているだろうか。

「あんた、相変わらず神出鬼没ね」
 と私は言った。雪虫は白いタートルネックのセーターに顔を埋めながら、目を細めた。
「ここまで来るの、大変だったでしょう。あんた体力ないから」
「ひまりは体力だけはあるもんなぁ」
 さらりと失礼なことを言う雪虫を無視して、私は歩き出した。湿った落ち葉を踏みしめるたび、靴越しに柔らかい感触が伝わってくる。この枯れた葉ももうじき雪に圧縮されて、土の肥やしになる。そしてまた春が来て、新しい芽を出す草花の栄養になるのだ。輪廻と言うと大げさかもしれないが、そこには確かな命の循環がある。
 そこまで考えて、私は思考を放り出した。だから、何だと言うのだろう。どうでもいいことを思うのは疲れる。
 ガサガサと落ち葉を蹴散らしながら私の後を追って来た雪虫が、ようやく私と肩を並べた。荒い息づかいが横から聞こえてくる。情緒のない雪虫の足音が、私のささくれた心を少しだけ滑らかにしてくれた気がした。
「雪虫、今日は飲もう!」
 雪虫の背中をばしんと叩いて、私は明るく言った。悶々とした気分を吹き飛ばしたかった。
「今日も、でしょ。ひまり」
 雪虫は呆れたように、けれども百パーセント乗り気だとわかる声で笑った。

ここから先は

38,393字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?