見出し画像

アンビバレンス

ただ、美しかった。
 咲き乱れる桜の中に、違和感のかけらもなく浮かぶ黒は、きっと彼くらいだろう。物憂げな表情は、水彩の絵の具で色をつけたくなるような、儚さがあった。
 記憶の中の彼は、何年経ってもその美しさが色褪せず、春が巡るたびに会いたいような、けれども今の姿の彼に会うのは少し怖いような、両極の思いにさせるのだった。


 四月。僕の通うそこそこ名の知れた大学では、週明けの今日から授業が始まった。三年にもなると履修する科目が一気に少なくなる。僕も専門以外の選択科目はこの〝日本の文学〟という授業だけだ。
 そこで、彼と出会った。
 近くの人とペアになりテーマとなる文学作品を読み解いていく、という内容の授業だった。僕は隣の男の人と組もうと思い、何となく顔を横に向けた。
「よろしく」
 彼は言った。座った時には気づかなかったが、彼はとても綺麗な顔をしていた。誰からも好かれるような美男子というよりは、近寄り難い孤高の美青年といった雰囲気だ。
 だが、意外にも彼は気さくだった。作品を読み解くとき、それはあり得ないだろうという解釈を冗談っぽく言って、僕を笑わせたりした。九十分間の授業が終わる頃には、僕たちはすっかり打ち解けていた。
 それ以来、彼とは授業の後や昼休みなど、時折行動を共にするようになった。彼と僕は学部は違うが、学部のある棟が同じなので行動範囲が似通っていた。
 彼はいつも同じような黒いシャツに黒いパンツを履いていて、肌の白さが黒い全身にぼうっと浮き立つような見た目から、陰で「悪魔」などと呼ばれていた。僕のイメージする悪魔は醜悪な姿なので、彼の整った容姿と親しみやすい性格とは似ても似つかなかった。
 講義棟のそばにある桜の木の下で、彼の姿をよく見かけた。花のたくさんついた枝に手を伸ばす姿は、遠くから見ても絵になった。
「桜、そんなに好きなの?」
 そう彼に聞いてみたことがある。彼はほんの一瞬遠い目をした後、
「ああ、好きだよ」
 と穏やかに微笑んだ。

 それと同じような目をして彼が誰かを見つめていることに気がついたのは、桜も満開のピークを過ぎ、しなやかに緑の葉を増やす頃。
 日本の文学の授業が終わり、彼と一緒に学食へ向かう途中、彼の歩みがふと遅くなった。どうした、と聞こうとして彼の目線の先を見ると、そこには僕と同じ学部の女の子がいた。
 僕は心臓がばくんと跳ねた。なぜ? 彼がどうしてあの子を見つめているのだ。
 同じ学部の女の子。授業でもよく一緒になった。話したことは数える程しかないが、その柔らかい声やふわふわした髪の毛、小鳥のような笑顔が僕の好みのど真ん中だった。彼女は僕が片思いしている子だった。
 
 彼はきゅうっと目を細めて、やさしい顔をしながら彼女を見ていた。彼女は彼に気づくことなく、友達と話しながら軽やかに遠ざかって行った。
「ごめん、行こうか」
 彼は僕の方を振り返ると、何ごともなかったように笑った。学食に向かっていたことなど、忘れていた。

 その後も、彼が彼女を見つめているところを何回か目にした。決まってやさしい顔をして、愛でるように見ていた。
 ある日の夕暮れ、ついに僕は彼に聞いてみた。なぜ彼女を見つめているのか、なぜ見つめているだけなのか。空には星が、ろうそくの灯りのようにチラチラと瞬き始めていた。
 彼はしばらく両手を組んで、うなだれていた。そして顔をゆっくりと上げ、悩ましげに語り出した。
 
 彼と彼女は以前付き合っていた。しかし一年前、彼の方から別れを告げた。
「彼女といると、俺はおかしくなってしまう。彼女を大切にしたい、けれどもめちゃくちゃに汚してしまいたい、傷つけてしまいたい衝動に駆られる。彼女は綺麗だ。何よりも。だけど、そんな彼女だからこそ、どうしようもなく汚してしまいたくなる。俺はいつもそうなんだ。大切にしたいと思えば思うほど、同時にそれを壊したくなってしまう。だから彼女とは一緒にはいられない」
 彼は綺麗な顔を悲しげに歪めながら、そう語った。
「それは、寂しくないのか」
 僕は聞かずにはいられなかった。
「寂しいに決まっている。俺は彼女と別れた四月の桜を見るたび、その光のような美しさと散った後の暗い影が一つになって胸に迫ってくるんだ」
 そう言って彼は、静かに泣いた。伏せた長いまつ毛に、涙の粒が転がるように滑って行く。
 悪魔。唐突に思った。授業で読み解いた作品の中に、美しい顔の悪魔が出てきたような気がする。そういうことか。彼を悪魔と形容するのには抵抗があったが、今するりと腑に落ちた。なるほど、美しいものにも悪魔という言葉が似合うのか。
「あの子をそうやっていつまでも見ているだけなのか」
 僕は続けて聞く。
「わからない。心の整理がつくまでは、な」
「でも君は、あの子のことがまだ好きなんだろう」
 彼は僕を横目でチラリと見て、かすかに笑った。けれどすぐに真剣な顔をして、
「愛しているさ」
 と言った。

 僕は唐突に、気づいてしまった。僕だってあの子を見ていたから。あの子の目が誰に向いているのか、僕は苦しくなるほどに気づいてしまったのだ。
 彼女の視線の先。たどるといつも彼がいたこと。それはほんの数秒で、彼女はすぐに目をそらし、また小鳥の笑顔で友人たちとじゃれ合うのだが、その数秒を僕は見逃さなかったのだ。
「君だって知っているだろう、あの子も君のことが……」
 それ以上言うな、と彼は頭を振って僕の言葉を遮った。どうにもならないんだ、と。
 僕はそれ以上何も言えなくなって、黙り込んだ。長い時間僕たちは一言も話さずに、その場にいた。もうすっかり夜が落ちている。
どちらともなくそろそろ帰るか、となり重くなった身体を動かした。
「じゃあ、また」
 僕が手を挙げると、彼は、
「じゃあ」
 とどこか寂しそうに手を挙げた。去っていく彼の姿は闇に染み込むように、じきに消えた。


 次の日から、彼は大学に来なくなった。彼については留学や退学、夜逃げ、駆け落ちなどといった様々な憶測が飛び交ったが、僕は自分のせいで彼が来られなくなったのではないかと不安になった。
 やがて夏が来て、秋に染まり、雪が降り積もっても、再び彼の姿を見ることはなかった。
あんなことを聞かなければ。彼がいなくなったこととは、もしかしたら全く関係がないのかもしれない。けれども僕は、後悔に苛まれていた。
彼女は相変わらず可愛らしく笑顔で過ごしているようだったが、僕はその顔を長く見つめることはできなかった。彼女の視線の先に、彼はもういない。そのことを彼女はどう思っているのだろう。彼女の悲しそうな顔も、ホッとした顔も、どんな顔も見たくなかった。


大切にしたいけれど、壊してしまいたくもなる。彼が言っていたことは、僕にはずっとわからなかった。僕は大切なものはとことん大切にしたい。
だけど今、咲き誇る桜の木を前にして思うことは、きっと僕にもそういうところがあるのだということだ。おそらく、あの子にも。
 両極の思いを抱えて生きることは、その大きさや程度に差があるにせよ、僕たちを確かにつないでいる。そして、その両極の思いというのは、時に激しく、哀しみを纏う。
 僕はあの時、彼を哀れんだ。何とややこしい感情を育てているのだろうと。
「僕もきっと、君と同じだな」
 少し風の強い空に舞い上がる桜の花びらは、悪魔のように美しい彼の姿を思い起こす、呼び水のようだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?