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微雨

思い出の中の彼女の上空には、いつも薄い雨雲が広がっていた。
実際は、いつも、ということはない。晴れている日にも見かけたことが確かあるはずだ。それなのに、彼女の姿を思い起こすたび藍色と灰色を混ぜたような雲が、彼女の背景に滑り込んでくるのだった。


「雨子です」
 と彼女は言った。名前の印象が強すぎて、周りの喧騒は瞬く間に耳から離れていった。
「珍しいお名前ですね」
 綺麗とか素敵とか、もっと気の利いたことを言えばよかったのかもしれないが、奥手な僕は〝珍しい〟という表現に逃げた。それでも彼女は感じのよい声で、
「よく言われます」
 と微笑んだ。ほんのりと赤らんでいる頬に色気を感じた。

 目がさめるともう昼過ぎだった。会社のことが一瞬頭をよぎったが、すぐに今日は休日であることを思い出した。
 喉が渇いたので台所へ行き蛇口を捻ると、流れくる水とともに昨夜の彼女との僅かなやり取りが鮮明に溢れてきた。雨子、と名乗ったときの艶やかな声が耳の奥に残っている。
 水を飲んでいると、携帯のバイブレーションの音がベッドの側から聞こえてきた。見ると一通メールが来ている。雨子からだった。彼女にいつ自分のアドレスを教えたのだろうか。自己紹介以降は、大した話はしていないはずだ。
 雨子からのメールには、僕の同僚からアドレスを聞いたと書いてあった。今から少し会えませんか、とも。今日は土曜で仕事は休みだったが、彼女と会うのは躊躇いを感じた。付き合いで上司と同僚と行ったキャバクラで、僕たちの相手をしてくれたのが雨子だった。
 素敵な女性だと思った。立ち姿が美しくて、座るときにはふわりと花の香りがした。
 しかし、だからと言って休日に会うような仲にはなっていない。もう一度会いたいかと訊かれれば会いたいと答えるが、正直プライベートで会うのは面倒という感情の方が強かった。
 断りのメールをしようか、無視しようか逡巡していると、また雨子からメールが来た。
お財布を預かっております、という内容を見て思わず、
「先に言えよ」
 ため息が出た。昨日の店に財布を忘れてきたらしい。結論を先に言わないで思わせぶりな態度をとるのは仕事柄なのだろうか。ともあれ、財布がなくては困るので僕は仕方なく雨子と会うことにした。

 定期券の沿線でしか会えないと僕がメールすると雨子からは、では港で会いましょう、と返ってきた。港駅は会社と僕の家のちょうど真ん中くらいに位置する。
 僕が港に着くと雨子はすでに待っていた。彼女は、黒いTシャツに白いデニムというシンプルな格好をしており、店で見たときの可憐な印象とは違っていた。けれども、やはりその立ち姿は凛としており美しかった。
「すいません、財布を預かって頂いたみたいで」
 僕が先に口を開くと、雨子は静かにハンドバックを開き中から僕の財布を取り出した。
「ありがとうございます。助かりました」
「いえ。あの、少し歩きませんか」
 彼女は何故か泣きそうな顔でそう言った。その表情に僕は戸惑い、
「はい」
 としか言えなかった。有無を言わさず、といった切実さが彼女の表情にはあった。

 自分から歩こうと誘ったくせに、雨子は黙ったままだった。気を使って僕が色々話しかけても、ええ、とか、そうですね、といった上の空の相槌しか返ってこなかった。僕は気まずさと気疲れが相まって、次第にイライラしてきた。しかし、彼女は相変わらず泣きそうに顔を歪めているので、僕は感情を表には出せなかった。
 雨子があまりにも話さないので、こちらから話題をふるのも馬鹿馬鹿しくなってきた。僕たちはお互い口をつぐんだまま、港を歩いた。海風が時折彼女の長い髪をさらって行くが、彼女は整えることもせずに弄ばれていた。
「そろそろ帰りましょうか。財布、ありがとうございました」
 沈黙に耐え切れなくなった僕がそう告げると、雨子は揺れる瞳で僕を見つめ、
「本当に、私が誰かわかりませんか」
 と言いついに泣き出した。彼女は大きな目からはらはらと透明な涙を流しながら、僕の唇のあたりをじっと見ていた。
「え……」
 僕は目が泳ぐ。彼女は何を言っているのだ。彼女の名前は、雨子。昨日上司と同僚と行ったキャバクラで、初めて会った。彼女は、雨子。彼女の名前は……
 生ぬるい風が僕たちの間を吹き抜けていった。ふと空を見上げると、暗い色の雲が一帯を覆っている。さっきまで晴れていたのに、今にも雨が降り出しそうだ。傘を持って来ていないな、と思ったと同時に、ある情景が瞼の裏に浮かんだ。


 薄曇りの空。細かい雨が降る帰り道。一つの傘の中で狭そうに肩を寄せる、二人。
僕には雨が降ったときだけ、一緒に帰る後輩がいた。
「先輩って、いつも折り畳み傘持ち歩いているんですか」
「そうだなあ、だいたい持ってきてるね」
「ふふ、私と反対ですね。私は雨予報でも絶対傘は持って歩かない」
「どうして?」
「邪魔だから」
「あって損はないと思うけど」
「邪魔ですよ、だって、先輩と帰れなくなっちゃうでしょ」
 そう言って後輩はいたずらっぽく笑った。僕は何と返事をしたらいいのかわからなくて、曖昧に微笑んだ。
「僕が卒業したらどうするの」
「そしたら雨に濡れて帰るよ」
 卒業間近の三月の日だった。後輩は僕がさしていた傘を飛び出して、雨の降る空を見上げた。
「風邪ひいちゃうよ」
 慌てて僕は彼女に傘をかざす。
「先輩、卒業しても私のこと忘れないでね」
 彼女はありきたりな台詞を吐いた。穏やかな口調で、でもはっきりと。
「忘れないんじゃないかな、多分」
「何それ、てきとー」
 彼女は鼻の頭にくしゃっとしわを寄せて笑った。
 やがて分かれ道に来た。ここから後輩の家はすぐらしい。行ったことはないけれど。
「先輩、またね」
 彼女が手を振りながら駆けていく。
「美雨ちゃん、また雨の日に」
 僕の声が彼女に届いたかどうかはわからなかった。
 その日から僕が卒業するまで、雨は一度も降らなかった。後輩ともそれきりになった。雨の日に一緒に帰るだけの何でもない関係の僕たちが、再び会うことはないと思っていた。


 今僕の目の前にいる雨子は、あの頃の後輩とはまるで別人だった。後輩はどちらかと言えば地味な方で、雨子の華やかな雰囲気とは似ても似つかなかった。それでも僕が、
「美雨、ちゃん?」
 と名前を呼ぶと、雨子はパッと顔を輝かせ口元を綻ばせるのだった。
「本当に美雨ちゃんなの?」
「先輩、鈍感ですね」
 ふふっと笑ったその顔は、あの頃の後輩の面影が少し残っているような感じがした。
「雨子は源氏名ですよ。先輩、一緒に歩いたら気づくかと思ったのに。忘れちゃったんですね、私のこと」
 彼女は寂しそうに俯いた。
「いや、美雨ちゃんのことは覚えていたよ。でも雨子さんと美雨ちゃんが同一人物だとは思わなかった」
「気づいてよ、先輩。私はすぐに気づきましたよ」
 彼女はそう言って、僕の方を向いた。
「財布、ごめんなさい」
「え?」
 意味がわからなかった。僕が店に忘れたのに、何故彼女が謝るのか。
「実は、私が抜き取ったんですよ。先輩のポケットから」
 彼女はいたずらっぽく笑った。その顔はやはり、僕が覚えている後輩のそれと同じだった。
財布を抜き取ったというのに彼女からは陰湿さのカケラも感じられず、ただ悪びれもなく大胆な行動をする女の子、としか思えなかった。そのことに僕が一番戸惑っていた。彼女のしたことを咎める気も失せてしまった。懐かしい後輩と会えて、僕は素直に嬉しかったのだ。
「ねえ、私たち、また始まる?」
 彼女が僕の顔を覗き込んで訊いてきた。口元には隠しきれない期待の笑みが浮かんでいる。
 僕たち、何か始まったことなんてあったっけ?
 そう惚けようとして、やめた。多分、僕も彼女と同じ気持ちなのだ。
「晴れの日も、君に会ってみたい」
 彼女の表情は見なくてもわかった。
先ほどから僕たちの周りを吹いていた生ぬるい風は、今になって微かな雨を引き連れてきた。雨の匂いが地面から鼻腔まで辿り着く間、僕と彼女はきっと同じことを思い出していた。

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