Father complex
「今夜、飯食いに行くか?」
「うん。行く。」
「じゃあ八時に、西口の改札な。」
こんなふうに私は時々、父親と会っていた。
会いたい時に会えるようになったのは、15年ぶりだった。当時、私は美容院でアシスタントとして働いていて、半年くらいの間だったけれど偶然にも父の勤務先も同じ沿線だったので、月に1、2回会って食事をするようになった。
待ち合わせ場所には、いつも私が先に到着する。私に気づいてちょっと小走りになる父の姿を見るのが好きだった。
「おう。待ったか?」
変わらない優しい声と不器用な笑顔。
見えないけれど確かに愛されていることを感じる瞬間。私はこの人の娘になることを選んで本当に良かったと思う。付属の人生がどんなに辛いものだったとしても。
本当はこの日、半年前から付き合い始めた純平と会う予定だったが、私はいつだって父の方を優先する。
「なに食いたい?」
「なんでも。パパにまかせるよ。」
イタリアンだったり、ラーメン屋だったり、居酒屋だったり。場所はどこでもよかった。父と過ごす時間は、子供でいられなかったあの頃の私がやっと子供に戻れる大切な時間だった。
仕事のこと、彼氏のこと、なんでも話した。
「パパは最近どうなの?奥さんは元気にしてる?」そう聞くと、ちょっぴりバツが悪そうな顔をして、まあな。とだけ答える。別に私は奥さんのことを恨んでもいないし、嫌いでもない。パパが幸せならそれでいいんだよ。といつも言っているのに。
お腹いっぱい食べて、いい感じにお酒も飲んで、ほろ酔いで店を出る。いつものように商店街をゆっくりと歩いて駅へと向かう。また会おうと思えばいつだって会えるのに、帰りはいつも寂しくて、私は心だけで泣いてしまう。
一緒にいる時間は少しでも近くにいたくて、父の腕に自分の腕をすべりこませる。「おい月乃、ちょっと待て。俺、援助交際してると思われないか?」なんて言い出し、吹き出してしまう。「あのさ私、高校生じゃないんだから。だれもなんとも思わないよ。」とケラケラ笑いながら、わざともたれるようにして歩く。そんなふうに甘えてみたかったから。
「おまえさ、そんないい子でいなくてもいいからな。もっとワガママ言って、俺を困らせろよ。俺は月乃に辛い思いしかさせてこなかったんだから。」
父は毎回こんなふうに、もっと自分を責めろと言うのだ。
「おまえがいい子なのが、逆に辛いよ。グレたり、金せびったりしてくれた方がよっぽど俺は楽なんだよ。」
そんなこと言われてもねぇ。
父とは、生まれてから9年くらいしか一緒に暮らしていない。だからやっと大人になって、自由に会えるようになって、もう一度、父と娘としての絆とか愛情みたいなものを感じてみたかったのだ。でもなんとなく、私と父はもうそんなに会うことはないんじゃないかと思っていた。どうしてかは、わからないけど。
_ 数ヶ月後。
父の転勤が決まった。もう頻繁には会えなくなるので、弟の流星も呼んで三人で食事をすることになった。
ここに母が加わることはたぶんないけれど、三人でも充分に楽しい時間が過ごせた気がする。幸せだった。そう、私はずっとこんな普通の幸せが欲しくてたまらなかったのだ。またしばらく会えなくなるけれど、もう寂しくはなかった。
父を見送ってから、流星の車で送ってもらうついでに、湾岸線を少しだけドライブした。
「姉ちゃんはほんと親父のこと好きなんだな。」
唐突に流星がそんなことを言う。
「そうだよ。流星だっていい歳してママに甘えてるでしょ?」と言い返す。その横顔はうっすら笑っているようにも見えたが、流星は前を向いたまま黙っていた。短い沈黙を押し流すようにカーラジオの声が鮮明に響いている。東京の夜景はこんなに眩しいのになんで寂しくなるのだろう。
「ま、しょうがねーよな。俺たちはさ、一番親が必要だった時に一緒にいてもらえなかったんだから。」そう言って、頼りなく笑った。
そう。あの頃の私達は、寂しさのどん底にいた。
子供の頃、一度だけ流星をつれて家出をしたことがある。どこまでもあてもなく歩いて、どこかで警察にでも保護されれば、もしかしたらパパかママが迎えに来てくれるかもしれない。そんなことを期待したのだ。まあ、あっという間に見つかって、ハロウィンのカボチャみたいな目をした大人達に連れ戻されたのだけど。そういえばあの時、あんなに泣き虫だった流星が一度も泣かなかった。お姉ちゃん、どこ行くの?と何度も私の顔を覗き込む流星をひたすら無視して歩き続けたのに、泣かなかった。私の手をぎゅっと握りしめて。流星は憶えているだろうか。こんこんと降り続く雪の中、ふたりで歩いたあの日のことを。
「姉ちゃん今日も彼氏ほったらかしてきたんだろ?」流星が呆れた口調で言う。
「うん。彼氏といるより、今はパパといたいの。だけどいつまでもファザコンじゃ私、一生結婚なんかできないかも。友達にも気持ち悪いって言われちゃうし。」と笑った。
流星は、ふん。と鼻で笑いながら、煙草に火をつける。サンルーフを全開にして、大げさに顔を上に向けて煙を吐いた。
「ま、いいんじゃないの。俺なんてどうするよ?マザコンの上にシスコンだぜ?もう救いようないわ。」と、わざと拗ねたような顔をして、スムーズに車線変更をする。
泣き虫だった流星はもう立派な大人になっていた。私は、流星の頭をぽんぽんと叩いて、可哀想なりゅうちゃん。とケラケラ笑った。
「今度会う時は、クソ可愛い彼女連れてきてやる。」流星はそう言って、白い歯をニッと光らせた。
_ あれからずいぶん月日が流れて。
それぞれに歳を重ねて、環境も変わり、いろんなことが過去になっていった。
父に会うのは数年に一度。祖母の法事の時くらいだった。そのたびに私は、パパ大好きだよ。と言って手を握る。その手の温もりを何度でも感じたかった。そしてずっとずっとその温度を忘れずにいたかった。