夜にイチョウ
いつからか私は自分の本心が分からなくなっていた。自分が何を求めているのかさっぱり見当がつかないのだ。私は本をよく読む。しかしそれは本当に好きだから読んでいるのか分からない。もしかすると、本を読むのは偉いことだと思っていて、誰かに褒めてもらうために読んでいるのかも知れない。
そんな私にも心から好きと言えるものがあった。隣町にあるイチョウの木だ。それは一本だけでぽつんと生えていて、とても大きく、美しい。キリンでも敵わないくらい高くて、大人5人が手を繋いで作る輪くらいの周囲がある。それを初めて見たのは小学生の頃で、母が運転する車の車窓からだった。車窓から見えたイチョウの木は一瞬で通り過ぎてしまったが、それは私に大きな衝撃を与えた。それから私はそのイチョウの木に夢中になった。度々母に連れて行ってもらい、その幹を触ったり、落ち葉を拾い集めたり、遠くから眺めたりして楽しんだ。
ある日母とそのイチョウの元へ行くと、何人か先客がいた。おそらく近所の小学生だ。彼らはイチョウの周りで遊んでいた。すると、そのうちの一人がイチョウの木に向かって立ち小便をし始めた。私はとてつもない怒りに駆られ、彼のもとへ近付き、思い切り殴った。それからのことはあまり憶えていないが、人生の中で最も怒られたということは確かだ。なにはともあれ、その時の怒りが、イチョウの木への愛を裏付けている。
大人になった今でも時々訪れる。いつ見てもそのイチョウの木は美しかった。私はふと、そのイチョウの夜の姿を見たときが無いことに気がついた。辺りには電灯が一切なく、夜になると真っ暗になってしまうためだ。きっと夜の姿も美しいに違いない。そうだ、私が照らしてしまおう。心臓がどきりとして、早くて強い脈を打ち始めた。夜のイチョウを想像するだけで幸せな気持ちになれた。居ても立っても居られなくなり、すぐさま準備を初めた。まずホームセンターに行き、飾り付け用のLEDを大量に買った。そして電気屋でポータブル電源を買った。夜が待ち遠しくて仕方がなかった。
24時過ぎ、イチョウの木の元へ着いた。辺りはやはり真っ暗だった。用意したLEDを木に向かって投げて絡ませた。全てを絡ませ終わり、それらが電源に接続されていることを確認し、スイッチを入れた。辺りが光に包まれた。遠くから見たほうが綺麗に違いないと思ったので、まだイチョウを見ないようにし、その場から離れた。十分離れ、ついに私は見た。闇の中に大きな黄色い灯りがぼんやりと浮かびあがっており、それは言葉で表せないほど美しかった。いや、言葉で表すべきではないと思った。この感動を言葉に変換すると、必ず何かが損なわれる。私は今心にあるこの感情をそのまま記憶しようと努めた。この感情を思い出すだけで、他に一切の喜びがなかろうと、余生を満足に送れるだろう。そう思えるほど、夜に灯る私の愛するイチョウは綺麗だった。
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