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虫の息

春や秋という、過ごしやすい季節の夜が僕は嫌いだ。

静かな夜道を街灯に照らされて一人歩くと、夜に冷やされて澄んだ空気に乗って、アスファルトと草を混ぜたような「夜の匂い」が鼻孔をくすぐり、肺の奥に溜まっていく。

暑すぎず寒すぎない、心地よい季節が神経を敏くするのか、そんな「夜の匂い」にあてられていると、感傷的に昔を思い出して、苦い唾液が口の中にじわりと染みる。

誰も入り込めない静けさの中で、思い出したように凪ぐ夜風だけが優しい気がして、神経は細り、目線は下がり、僕は死にたいわけでもないのに、生きるとか死ぬとかいうことを考えてしまう。

そんなふうに無神経な感傷が胸を締め付けるから、僕は今日みたいな春や秋の涼しい夜が嫌いだ。

* * *

いつの間にか年号が変わり、今年また一つ歳を重ねる。

20歳になる前あたりから実年齢と自覚している年齢が乖離し始め、かつて自分のことを18歳だと思っていた僕の中での僕の年齢は23歳で止まっていた。
社会に出始め、この先数十年続く未来の中に不安も期待も綯交ぜになった、希望溢れる23歳。

きっとそれは僕が無意識に希望に満ちた未来を求めた結果なのだろうと思う。

それと裏腹に責任と義務が増えていって、病院の問診票の年齢の欄にはまもなく28歳と書かなければならなくなる。
23歳と28歳の差を誤差と笑える先輩諸氏には誠に恐縮だが、28歳にとっての5年という時間は、圧倒的に取り返しのつかない大きさなのだ。

結婚してから2年が経った。

一人で飲む酒を覚えて4年が経った。

学生でなくなってから6年が経った。

いまとなってはなぜだか分からないけれど、ものすごく好きだったあの子に別れを告げて7年が経った。

大学に入って、一緒にいて心から楽しめる奴らと出会って10年が経った。

中学に上がってなんとなく敷かれたレールを一番早く走るため、必死に勉強をするようになって15年が経った。

自分でも覚えていない、この世に生まれた瞬間から28年が経った。

28年という時間はあっという間に過ぎた。
子供のころ思っていた28歳はもっと先の未来のことで、もっと明るくて、もっと苦しくて、もっとたくさんの選択肢に囲まれていた。

28歳の倍は56歳で、3倍すれば84歳になる。
この一瞬で過ぎた28年を、たった3倍した未来にはきっと僕はこの世にいない。
人生っていうのはもっと長い時間をかけて歩んでいくものだと思っていた。

虫の命は儚い。

そんなふうに誰かが言った。嘘だ。
人間の命だって短く儚い。

46億年とか言われるこの星に生まれて、たった80年そこら生きて僕らは死ぬ。
何も成し得なくても、納得しなくても死んでいく。

中学校のとき生徒会で一緒だった彼は、昨年病気で死んだ。
小学校1年生の時に世話をしてくれた一つ上の彼は、離婚調停の末に死を選んだ。

明日地震で死ぬかもしれない。
2週間後にはウィルスで死ぬかもしれない。
いつだって、隣国がボタン一つ押せば僕らはいとも簡単に死ぬ。
そうでなくとも、放っておいても50年もすれば僕らは勝手に死んでいく。

「一度しかない人生、自由に生きよう」なんて、能天気に笑える度量は僕にはない。
僕も、あなたも、いつ死んだっておかしくない虫の息だ。

そう考えを巡らせると、僕は生き延びる方法を考えなければならないような気がしてくる。
生きて、無意味に思える数十年の人生に何らか意味を持たせなければ。

数日間しか生きられない虫だけが可哀そうなんじゃない。
人間だって可哀そうだ。

* * *

僕が愛してやまないFINLANDSというバンドが先月、「まどか」という曲をリリースした。

静かに始まるバラードながら、塩入冬湖さんの声からは確かな決意や前に進んでいくための気迫と力を感じる。

この曲を作るきっかけとなったという昨夏の「京都アニメーション放火殺人事件」のニュースを僕は、とある山の上で見た。
死と隣り合わせの山の環境でニュースを見たからこそ、人が前触れもなく簡単に死んでいく様子に膝が砕けるような思いになり、その裏側には田淳ならざる多くの人の思いや過去や未来があることを思い量ると言葉も出なかった。

「まどか」に関する記事の多くでも語られているが、奇しくも「まどか」がリリースされた現在、世界は恐怖のウィルスに侵されている。

そういった中で世界だけならず日本にも、誰かの利権で動く金があって、その金で左右される生活をする人があって、誰かが決めた基準で選別される命がある。

この世界に対して、吹けば飛ぶような僕の28年間はあまりに軽すぎる。
虫のようにか細く息をするだけの僕には、そうした世界の色々をどうすることもできないと分かってはいるけれど、何かできることはないかと足掻きたい僕もいる。

世界は変えられなかったとしても、僕の見える範囲くらいは何か変えなくてはならない。
FINLANDSの「まどか」が、そしていまの社会情勢がそう、耳元で囁く。

緩やかに死にゆく僕がいまできることは何だろうか。

つきこ


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なみき つきこ
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