かがやきたい。
noteとTwittterのプロフィールに「かがやきたい」と書いた。
「有名になりたい」でも「お金が欲しい」でも「毎日遊んで暮らしたい」でもなく「かがやきたい」。
(お金は欲しいし毎日遊んで暮らしたいけれど)
そう、僕は輝きたいのだ。
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昨年末からの思いがいまも消えない。
ちょうど1か月前に別のnoteでも書いたけれど、仕事中心の毎日がどうしても虚しくて、ただ時間と命を消費して暮らしているような気がしてしまう。
たとえるならば、冬の間コンセントに繋がれて放置された扇風機の如く、いつ来るともしれない夏を思いながら、ただ消費電力を食い続ける無用の存在。
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今年に入って立て続けに体調を崩し、手術も受け、おまけにウィルスが蔓延するゲームの中みたいな世の中になってきて、僕は「生きる意味」みたいなものを考えるようになった。
いや、思えばもっと前からそんなことを考えてきたのかもしれない。
幼稚園のころから何かを作ることが好きだった。
毎日家で工作をしては幼稚園に持って行って見せびらかしていたし、小学校の高学年から中学3年生にかけては、小説家になりたくて毎日何か書いていた。
大学ではデザインを学んで、大学内でのポスター作りの仕事を請けたりもしていた。
著名なアーティストや作り手は、「好きだから」何かを作っているようなことをよく言う。
ミュージシャンなら音楽を、小説家なら小説を、漫画家なら漫画を。
一方で僕はどの時代も「作るのが好き」というよりは、「作らなければ」という使命感に駆られて、必死にモノづくりに向かい合っていた。
(幼稚園のときも、「明日絶対にこれを幼稚園に持っていく」と言ってカップ麺の容器にセロハンテープを貼っていた記憶がある)
そういう意味では僕には著名になるセンスはないのかもしれないけれど、その根底にあるのは、作った「モノ」を通して自分の価値を表現しなければ、自分が世の中に埋もれていってしまうのではないか、という危機感なのではないかと思う。
そして「モノ」を介さない自分自身には価値がないと無意識に悟った僕の焦りなのだと思う。
社会人になって数年は、その危機感や焦りはほとんどなくなっていた。
会社の理念に基づいて必死に働いている自分に価値があると思っていたし、その価値は毎月通帳に数字として刻まれていく。
しかし働いて数年も経つと、その通帳の数字がある種の予定調和で、自分が社会に与えた影響の大きさとは何ら関係がないことを知る。
そして自分の命を削って立てた様々な企画や戦略が、自分より高い「数字」を貰っている人の判断の遅れや気まぐれで水泡に帰すということも知った。
そもそも会社の理念なんてまやかしだ。
「世界を幸せにする」なんて言いながら、何とか商流の中に食い込んで利益を得ようとしている。それが僕の生活費になっているのは確かだ。
でも、世の中に理念の実現のために、脇目も振らずに事業をしている会社がどれほどあるのだろう。
虚しい。
そういう感情が頻繁に湧き上がるようになった。
それがnoteに書いた、昨年の年末のことだ。
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友達が漫画家になった。高校の先輩はプロ野球選手になった。
留学先でお世話になった人は、芥川賞候補になった。
別に有名になることが目的ではないけれど、みんなその価値を認められて名が知られていく。輝いている。
以前、ライブに行ったときステージとほぼ直角の向きで座ることがあった。
視界の右側には、ステージ上で演奏するたった5人。
視界の左側には、5人に声援を送り、飛び跳ね、笑う数千もの人。
この5対数千の構図がどうしても脳裏から消えない。
別に有名になりたいわけじゃない、数千人のファンがついてほしいわけじゃない。
それでも、何か一つくらい自分にも輝ける瞬間が欲しい。
誰かの後光に照らされるのではなく、自分の力で。
そのためには作り続けるしかない。
100万の駄作を作って100万回無視されて、それでも自分が作らなければいけないと思う何かを作り続けよう。
そんな決意の証として、「かがやきたい」と書くことにした。
つきこ