オルセー美術館に住む
今年パリ郊外に住む私が足しげく通っている場所がある。オルセー美術館である。自分へのお年玉として、1月に年間パスポートを購入した。
嬉しさと貧乏性が相まって、いまのところ週一ペースくらいで足を運んでいる。結論からいうと、この年間パスは、かなりよい買い物である。4回行って元は取れてしまったし、オルセー美術館はモネの睡蓮で名高い、オランジュリー美術館と提携しているので、2つの美術館が行き放題なのだ。
人生でこんな頻度で美術館に通っているのはもちろん初めてだ。オルセー美術館にはおよそ7万点の所蔵品のうち、常設で約4000点が展示されているそうだ。行っても行っても観きれずに帰ることになる。なのについ好きな作品は毎回観に行ってしまう。何度みても飽きない作品や発見も多い。
こんなペースで通っていると、「もういっそのこと美術館に住んでしまいたい」と思う。朝起きたら目の前に自分の好きな絵画作品がある、美術鑑賞が好きな私にとっては至福の生活だ。そう思ったと同時に「どの絵画を自分の家のどの部屋に飾ろう」という妄想が始まり、止まらなくなった。
そんなわけで、「もしオルセー美術館に住めたら」という空想のもと、各部屋に飾りたい作品を部屋別に取り上げていこうと思う。
玄関
まずは玄関である。家の顔と言っても過言ではない、第一印象となる場所だ。ここに何の作品を置くかによって、その人のパーソナリティまでもが如実となる、いきなりかなりの難題だ。
私はここに大胆かもしれないが、クールベの「画家のアトリエ」(1855年)を飾ろうと思う。サイズからして縦3.6メートル、横6メートルという圧巻の大きさである。この作品には「我が芸術的(また倫理的)生活の七年に及ぶ一時期を定義する写実的寓意画」というやたらに長い副題がつけられている。クールベの画家人生の一部をあらわした人物やオブジェが寓意的に描かれ、画家の名刺がわりとも言える作品だ。そして寓意的にしているということは、ある種の風刺も込められているのである。社会的思想や、芸術に対する思いまでが、一枚の絵に凝縮されてる凄まじい作品である。
中央にいる画家が、クールベその人で、彼のすぐ背後にはヌードモデルが立っているのだけれど、クールベは彼女に目を向けることなく、風景画を描いている。これだけでもとても象徴的な絵解きができる。クールベ は当時の女性を神聖化して描いた、ヴィーナスのような空想的な宗教画など従来の「アカデミック美術」に嫌気がさし、見たままを描くいわゆる「写実主義」を唱えた人物だ。なので風景、見たままのものが描かれたキャンバスを前にしてる。かなり当時にしてはアヴァンギャルドな作品である。他にもたくさんのものが寓意的に描かれていて、一つ一つ探ってゆくのも楽しい。来客者の興味に応じて、靴やコートを脱ぎながら「こちらの右端に描かれているのは、彼の友人の詩人ボードレールでね…」なんて具合に、ちょっとした小話にも花が咲くというものだ。
居間
さて、絵のせいで巨大になった玄関ホールを抜け、居間は客間として、また音楽や読書を楽しむ憩いの場所になるだろう。こちらにはモネ先生の「ジヴェルニーでの舟遊び 」(1887年)を飾りたい。モネといえば「印象・日の出」、「睡蓮」や「ルーアンの大聖堂」の連作などが有名どころだと思うが、私がオルセー美術館で観られる彼の作品の中で特に気に入っているのがこの絵だ。
モネの絵については一度踏み込んでしまうと簡単には抜け出せない「深み」のようなものを感じる。それと同時に視覚的に感じる純粋な美しさが魅力で、この作品の伸びやかさ、娘たちの無邪気さ、美しい自然の描写、水面に穏やかに映り込む舟遊びをする娘たちの姿は観ていて心地よい。小鳥のさえずりや、木の葉がそよぐ音の中で、三人の娘たちの楽しそうな話し声が聞こえてきそうだ。
穏やかな光の差し込む居間を、明るく和やかにしてくれるようなこの作品を飾ろうと思う。
キッチン
フランスに住み、友人の家やインテリア雑誌のキッチンには絵画が飾られていることに感動した。料理を作るスペースといえど、そこに絵を飾ることで、食への賛美や空間に個性をもたらすように思う。
というわけで、キッチンには食材をモチーフにした静物画をおきたい。そうなればセザンヌ先生の作品であろう。その中から「玉ねぎのある静物」を飾ろうと思う。静物画は習作としても多くの作家が手がけているが、この作品をオルセー美術館で目にしたときに感じた「セザンヌにしか描けない静物画の美」の空気に圧倒された。大きく左に寄った構図、ゴロゴロとテーブルの上に転がる玉ねぎは一つ一つの表情が楽しい。ボトル、布、玉ねぎといった質感の違い、背景の濁った灰がかった緑もクールだ。
ダイニングルーム
日々の食事をするこの空間は、家の中でも寝室の次に長い時間を過ごす場所なのかもしれない。食欲を削ぐことのない、抽象的な絵画がよいのでは、と思った。オルセー美術館に行くまで知らなかった画家、オディロン・ルドン作「Arbres sur un fond jaune (黄色い背景の木々)」(1901年)は、幻想的な黄色を基調とした作品だ。パステルや油彩を合わせ用いて描かれているためか、柔らかく穏やかな世界観である。縦長の画面に、上に伸びてゆく木が日本画の構図を感じさせるためか、遠くからだとまるで屏風画のようにも感じられる。実はこの絵を含む連作は、当時ロベール・ド・ドムシー男爵のダイニングルームを飾る絵として制作依頼を受けたのだそうだ。知らずして、この絵をダイニングにと選んでいたことに驚いた。(こちらには連作2枚のうちの1枚を掲載します)
寝室
夜眠りにつき、朝目覚めるまでの時間を過ごすこの空間に、バルビゾン派の間で見た、コローの二作品を飾ろうと思う。「Le Matin. Gardeuse de vaches(朝。牛飼いの女)」(1865-1870年)と「Le Soir. Tour lointaine(夜。遠くの塔)」(1865-1870年)。対にして眺めたい。見事に朝と夜(黄昏時)の空気を描き分けていて、なんとも美しい。朝陽と夕陽でこんなにも樹々も表情を変える。夜の絵の遠くにみえる塔の映り込みもささやかながらもドラマチックだ。朝夕で筆のストロークを変えて描かれている空の描写もいい。
ミレーなどで知られるバルビゾン派は、農民や自然風景を描いた一派として知られている。我が家からもほど近いパリ郊外の町ヴィルダヴレーにコローの父親が別荘を購入し自分のアトリエを構えていたそうだ。コローが好んで訪れ描いていた池は「Les étangs de Corot(コローの池)」と今でも名付けられている。
オルセーの名画に囲まれて暮らす空想は、なかなか楽しいものだった。オルセーといえばバルビゾン派や印象派の穏やかな風景画やほわほわとしたタッチを連想させるが、展示されているフランスの19世紀の作品は、長く続いた宗教画や伝統、形式を重んじるアカデミック芸術からの脱却、より自分たちに身近な新しいものを描きたいと追及した作家たちの戦いの歴史の証でもある。当時はあまりに新しすぎて、異端で前衛すぎると批判され、否定されていたのだ。それでも新しい芸術運動を通して、自分たちの創造を貫いてくれた彼らがいたからこそ、今オルセー美術館が存在する。そう思うと自分のいる空間がより歴史的重みをもってせまってくるようだ。
今週も私はオルセー美術館へ行くだろう。ほんの束の間の時間ではあるけれど、作家が思いや願いを込めて描いた本物を目の前に自分が何を感じるか、楽しみでたまらない。
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