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都市の快楽主義者 覚書

かつて都市空間に記号性を与えていたのは催事(出店や露店の立ち並ぶお祭りや、皇居や都を中心とする宗教的形式だった。しかし近年では、宗教の関心は薄れ、例えば盆踊りよりパレードの方が受容され、露店のショッピングは川辺や社寺周辺から人はモール、大規模商業施設に移った。つまり、地域性という境界をなくす事で、誰もが記号的空間に参入可能になった。例えば近年のそうした空間はディズニーランドの非日常体験に代表される。

しかし記号の消費や物語の消費はディズニーランドだけではなく、ディズニーランドという空間の影響を抜けだして、メディアに媒介した物の購買を通して記号の消費は行われる。

記号消費最たる例 「可愛い」とは何

それは基準がない。2000年代から可愛いは作れる.女の子って楽しいと言った可愛さの可変性自由度を表明するcmが流れ、可愛いとは、職業や人気など数値を伴う観念としては瓦解した。かわいいとは、つまり変化の具合であって本人努力あるいは記号性の充実度。それが盛りの文化。つまり、可愛くなろうとすることが可愛いという価値観。

記号性の充実度にあらゆるオリジナリティ、つまり理解の及ばないものは不必要になりつつある。そこで身体の性、顔の固有性は作り替えられる事になる。


快楽≧幸福

文明が発達するにつれて、例えばネットワークやグローバル化によって全てが交換可能になった。つまり、あらゆる存在がものとして相対的な評価を受ける事になった。人間もそうで、能力という後天的から可愛さといった先天的なものまで、否応なく比較競争優劣に巻き込まれるようになった。

そこで幸福というものを考えると、全てが相対的評価を受ける中で、幸福というあやふやな主観的感覚は幸福と思い込んでるに過ぎない。加えて日本人は仏法の無常感や、輪廻の概念があって死を肉体の死として捉えていることから、苦痛のないとか死なない事の幸福は受け入れ難い。

では、幸福という言葉はなんのためにつくられたか?

快楽を禁止、先延ばしにして文明を作るためにつくられた。つまり目先の利益より将来的な利益という目的あった。けれど、商品価値または、市場価値というのは、時間の概念を含まずに算出されるもの。だから将来的な利益の保証が考え辛い。そこで、禁止されていた、快楽(客観性のある事象)に忠実である方が望ましいと思える。積極的な快楽主義とはヒッピーやビート族の様に、全て受け入れその場その場で生きている人。

積極的な快楽主義ではなく、禁欲的な快楽の点で考える。快楽主義と禁欲主義は似ていて、快楽主義は感情や欲のまま動き、世の中を自由に生きること。禁欲主義ら感情や欲を捨て、世の中に動じないで自由に生きることを目的としている。禁欲主はお坊さんの様なもので、欲を捨て生きることで、あるがままの世界と一体化し、平穏を保つということ。

そして身体性に基づく主観的感覚を破棄し、客体に作り替える。
その多くはやはり感情

顔面 整形、化粧かわいさ
感情 音楽、感情の客体化 歌詞重視 大森靖子
性別 服装 売春


「幸福」 主観、苦しみのないことの持続
「快楽」 客観的な基準、瞬間的


フロイト 文化の不安
文明とは人間の幸福のために作られたものなのに、かえってそれが進歩するほど、人間の幸福と敵対するような要素を表し始める

空想世界では、快感が全面的に支配する世界である

ギリシャの快楽主義と禁欲主義は、自然と一致して生きることをモットーにしている点で同じ。→死の脅威や時間の脅威(人間性)から人間を解放すること

ストア派(禁欲主義)は全ての感情、欲を捨て動じないこと
エピキュリアン(快楽主義)は全てを受け入れ、動き続けること

日本文学は独立自尊、ダンディズム、太宰、安吾

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