福田平八郎の跳躍力───没後50年雑感
福田平八郎が晩年1966年に描いた「鯉」という作品が、「没後50年記念 福田平八郎×琳派」で展示されている(山種美術館にて12月8日まで開催)。
濃いグレー色のぼてっとした鯉がじっと動かずにいる。静物画のようだ。中にあんこが詰まっているのではないかと思われるほど躍動感がない。鱗の1枚1枚を欠けることなしに描いた出世作の「鯉」や、花に向かう小さなハチの羽音が聞こえてきそうな移ろう季節の花ばなや虫たちを細密に描いた写実性と装飾性を兼ね備えた作品を手がけてきた同じ作家の作品とは思えない変化だ。
この変化の曲がり角になった作品が、1932年の「漣(さざなみ)」だ。琵琶湖湖岸での徹底した現地写生を基にした写実作品でありながら、線描を一切せずに色彩だけで、カタチを表現している。カタチとは、水面を吹き渡る風によってできた漣が浮かび上がらせる不定形な波紋である。色は群青1色のみ。
写実性を突き詰めた末に、その写実に自家中毒を起こしかけていた平八郎による、大自然のリアリズムに突き抜けた新たな表現であった。
鯉の鱗1枚までもおろそかにしない写実の鬼がいったいどうしたのだ───当時の美術史家、田中一松は「浴衣地のよう」とこの作品を酷評した。高名な批評家に、サックス奏者が素晴らしい即興作品を「チンドン屋の音楽のよう」と言われるようなものだ。
今でこそ、20世紀を代表する日本画作品として、見れば見るほどそのすごさに引き込まれるのだが、花鳥風月、装飾性を持った写実主義を極めた人が、この「漣」の新たな写実性にジャンプする跳躍力には恐れ入る。
先日、天上湖として名高い上信越国境の野反湖を渡る秋の風が湖面に起こした波紋のきらめきを三壁山の稜線から眺めていたら、平八郎のこの作品がフラッシュバックしてきて、強い感情の波に揺さぶられた。