小説『モモタマナと泣き男』 第10話 【最終話】
もくもくと、黒い線。
あれはなに?
真那の鼓動が勝手にはやまっていく。
民宿に近づくにつれ、その線はくっきりと太く浮かびあがる。混ざり合わない青と黒。その不気味な色合いに、胸がざわつく。車の窓は閉めきっているのに、焦げくさい臭いが鼻をついた。
民宿が燃えていた。
屋根から煙がもうもうと上がり、窓から赤い炎がちらついている。
車から飛びだし、真那は走った。
まこと、お父さん、サワオ、保井先生、お客さん。
みんな、どこ? どこにいる?
火の熱さも怖さも忘れて、真那は家のなかに飛びこんだ。
「お父さんっ、まことっ、サワオー、どこー?」
無我夢中で叫んだ。ロビーは煙がうすかったものの、その奥は黒々とした煙が巻いている。口元をハンカチで押さえていても、息が苦しい。
と、台所の端のほうに、だれかが倒れているのが見えた。
「お父さんっ?」
あわてて駆けよる。意識はなかったが、胸に耳を当てると鼓動は確認できた。視線を上げると、台所のガスコンロのあたりから、炎の柱がぼうぼうと伸びていた。
なるべく台所からはなれなければと、必死で父の脇に両手を入れて引きずる。木造の平屋は火の回りがはやい。なんとかロビーの手前まで運びきった時には、周囲を火にかこまれていた。どこから逃げればいいのか。まったく分からない。
炎は容赦なく、真那の瞳にうつりこんでくる。目が熱い。息が苦しい。皮膚は焼けるように痛かった。
もう、ダメかもしれない。
もうろうとしてきた時だった。
「おいっ、大丈夫かっ!」
どこからか、サワオの声がした。
「サワ、オ?」
ふっとこわばりが解けていく。全身から力が抜けていく。怖かった。たまらなく怖かったんだ。サワオの声で、一気に涙がぼろぼろとこぼれた。
「まことは?」
「先生と外にいるから大丈夫。ぐはっ」
涙をぬぐい、サワオを見る。助けにきてくれたはずなのに、サワオはひどく動揺していた。くっそ、と何度もつぶやきながら、パニックのように血走った目をぎょろつかせている。これほど取り乱したサワオを見るのは、はじめてだった。
「サワオくん、火がダメみたい」
母の言葉を、ハッと思い出す。
そうだ、サワオは火が苦手だったのだ。台所の直火さえ直視できないくらいに。
燃えさかる炎は容赦なく広がり、さっきよりも大きな輪で真那やサワオを取り囲んでくる。身動きがとれない。燃えた柱がぱちぱちと火の粉を飛ばし、あちらこちらで倒れかけている。
「サワオ、大丈夫なの? 火、怖いんじゃ」
のどが痛くて、うまく声が出ない。
「……大丈夫、じゃないけど、大丈夫」
サワオは目を閉じると、何度か深い呼吸をくりかえした。
それから徐々に、いつもの落ち着きを取りもどしていく。
そう、いつもの。
いつものサワオ。
海の前で、「弔いの式」で、真那が見ていたあの美しい表情に。
「まかせとけ」
サワオは小さくつぶやくと、ふーっと細ながい息を吐いた。瞬時に、サワオの目に涙が集まり、頬をさらさらと流れおちていく。
最初は小川のようだった。森の合間を流れる清流。その静謐さに見とれたのも束の間、流れはみるみるうちに大河となった。ごうごうと大きな音を立て、渦を巻きながら、サワオの足もとに水だまりをつくっていく。それからサワオは、真那と父が流されないよう、大きな木の板に乗せると、自身の横にしっかりと寄せた。
さらに力づよくサワオが泣く。渦巻く水が火と対峙する。
と、その時、サワオの背後からぎいーっと大きな音がして、赤く燃えあがった木の柱が、サワオの頭上に倒れこんできた。
「あぶないっ!」
真那は叫んだ。
ダメかと思った瞬間、水だまりからひと筋の水が突きあがり、赤い柱をはじき飛ばした。サワオの横に倒れた柱は、水に浸かって白い煙をシューッとはいた。
夢を見ているようだった。サワオの目からわき出た水は、つぎつぎと炎を消し去っていった。
〇
どのくらい経っただろうか。
あたりは一面、黒一色。さっきまでの赤い炎はもうどこにもなかった。気を失っていたようで、重たい頭がにぶく痛む。ところどころ濡れたままの真那の横には、父が横たわっていた。いそいで口元を確認する。息はある。遠くで消防車の音がする。先ほどとはちがう、木の焦げきった臭いがした。
サワオ、サワオはどこ?
真那は立ち上がり、サワオを探した。サワオがいない。
さっきまでとなりにいたのだ。突然消えるわけがない。それなのに、あれほど大量だった水とともに、サワオの姿が見当たらない。
額の煤をこすりながら、サワオの姿を探していると、ふと、聞きおぼえのある声がした。
「やっと、消えたな」
サワ、オ?
真那はガバッとふり返る。声はしたはずなのに、姿が見えない。きょろきょろと首をふると、斜め上空に、大きな水のかたまりのようなものが見えた。なんとなく人型の、大きな水風船のような—―。
「え、なにこれ?」
真那は何度も目をこする。
「使いきっちまった」
その声は、まぎれもなくサワオのものだ。
「え? 使った? 何を?」
戸惑いながらも、その水のかたまりへと真那は近づいていく。目をこらすと、うっすらと、見慣れた顔の稜線が浮かび上がってくる気がした。
「サワオくん、やはり……」
背後から声がして振り向くと、保井先生が立っていた。そばには、まことの姿も見える。
「まことっ!」
真那は、まことのもとに駆けよった。よかった、よかったあ、と小さな頭ごと、つよく両腕で抱きしめる。まことは、状況をうまく飲みこめないのか、まんまるの目を見ひらいて、呆然としたまま立っていた。それもそうだろう。真那だって全然飲みこめてなんかいなかった。
真那は再度、先生に訊いた。
「これって、いったい?」
先生はこくんとうなずく。
「機が熟した、というのはいささか乱暴かもしれません。でも、こうなっては仕方がない。やはり、サワオくんは、カミなんです」
カミ? カミって何? 頭がもつれる音がした。
「真那さんはイザナギとイザナミをご存じですか? 古事記や日本書紀などにも記述のある、この国を創ったといわれる神のことを」
もちろん聞いたことはある。日本国土を生みだした、神生みの夫婦のことだろう。
「多くの神を生みだした妻イザナミは、火の神カグツチを生んだとき、産道を焼かれて死んでしまった。夫のイザナギは、妻イザナミの死をそれはそれは哀しんで、大いに泣いたんです。泣いて、泣いて、泣きぬれて、そうして、その涙からカミを生みだした」
「よく知ってるな」
サワオが、あいかわらず偉そうな相づちを入れる。
よく見ると、サワオの身体からは、ぽたぽたと水が滴っていた。さっきまで深い青だった身体の色は、少しずつうすまっているように見える。
「夫イザナギの涙から生まれたとして、よく知られているのは『泣沢女神』。女神です。彼女のことは、今も広く知られています。国内に、彼女を祀った神社がいくつもある。おそらく『泣き女』のルーツも、そこから来ています」
『泣沢女神』 サワメ? そういえば、町の山手にも沢女神社があり、井戸が祀られている。サワオらもよく出かけていたようだったが……。真那はショートしそうな頭をふるい立たせて、先生の話に集中した。
「それがじつは、『泣沢女神』の双子の弟として生まれていたのが『泣沢男神』。すなわち、サワオくんだったのです」
サワオが、涙から生まれた神様?
「母親であるイザナミは、火の神カグツチを産んだことで死んだ。だからサワオくんは、家族を不幸に追いやった『火』が、潜在的に怖いのでしょう」
サワオは静かに聞いていた。やっぱりなんとなく、色がうすくなっている。
「男は泣かず、女が泣くという時代の潮流もあってか、『泣沢女神』だけが残り、『泣沢男神』の存在は、いつのまにかこの世からなきものとされてしまいました。ぼくは海沿いの町の調査中、偶然サワオくんに出会った。そうして直感しました。『泣沢男神』は実在していると。それから、沢女神社にもよく、いっしょに行くようになった。サワオくんは涙の素を保つため、あそこの井戸水を定期的に数口含む必要があったんです」
サワオが神様だとか、涙だとか。突拍子のなさすぎる話だと、逆に平然としてくるから不思議だった。それよりも今は、サワオの身体のほうが気になる。
「たしかに、おれはもともと、涙のひと粒にすぎない。でもさ、生き物はみんなそうだろ。小さな涙のひと粒なんだよ。そうやって生まれて、また、そこに還っていく。でもだからこそ、かけがえのないひと粒なんだと思う」
そう力強く言うサワオの身体はより小さく、より透明に近づいている。
「おれは、涙の涸れたところに行く。ただ、それだけだ」
だから、真那のところに来てくれたのだろうか。
真那をここで待っていてくれたのか。
サワオを1秒たりとも見逃さないよう、ぼやける目をぐっとこらした。
「そうだ。ひとつだけお願いがある」
お願い、私に?
素直にこくこくうなずく真那を見て、サワオは軽く笑った。
「庭にモモタマナの木があるだろ。ほら、あそこ。燃えずに生き残っている。あれに、もうすぐ実がなるはずだ。涙の粒に似たカタチの実で、最初は青いけど、じきに赤くなる。モモタマナの種は海を漂流して、いろんな場所にたどり着く。だから、あの木に実がなって、種ができたら、それを海に流してほしい。ひとつでもいい。たくさんでもいい。それはまた、だれかの涙の種になるから」
サワオの身体はもう、向こう側が透けてしまいそうなほど、うすくなっていた。
「さて、そろそろだな」
サワオがゆらゆらと、真那とまことのほうに近づいてくる。それから、大きな手を伸ばすと、ふたりの肩にぽんと触れた。
「もう、大丈夫」
サワオがそう言った気がした。でもその声はもう、真那の耳に聞こえてはこなかった。ゼリーのような感触とともに、ぶるっとふるえて、その手がはなれる。それから、ぱちんと弾けたような音がして、サワオの姿は空にとけて見えなくなった。
「サワオ? どこに行くの?」
空中で瞬いた光は、サワオの微笑みだったのだろうか。
あとにはただ、炭化した柱と、焦げきった臭いだけが残されていた。
最終章 晩秋の種
秋の気配がただよいはじめた頃、モモタマナの木に実がついた。
その実はサワオの言っていたとおり、涙のようなカタチをしていた。
母は検査入院のあと、深刻な問題は見つからず、すぐに退院し帰ってきた。父はあのあと病院に運ばれ、意識を取り戻した。失神したのは火があがったことへのショックが原因だったらしく、身体に異常はなかったが、まだ念のため入院している。
役場から紹介され、近所の空き家に仮住まいをさせてもらっている。それにしてもあの時、母屋にだれもいなかったのは不幸中のさいわいで、真那も軽い火傷だけですんだから、犠牲者はゼロだった。サワオ以外は。
「民宿の名前、お父さんがつけたのよ」
焼け跡から奇跡的に残った看板を見つけて、母がなつかしそうに目をほそめた。
「ほらあの頃、真那がこの町を出ていってから音信不通になったでしょ。お父さん、そのとき突然、民宿をやりたいって言いだしてね。はじめてすぐの頃だった。波打ち際で種をひろったって、うれしそうに帰ってきたの。きっとモモタマナの種だろうって、喜んでそれを庭に埋めてね。真那が帰ってくるかも、とでも思ったのかな。それから、木はぐんぐんと大きく育ってね」
あの日、真那が買い物に出かけた時間、父はから揚げを作っていたのだという。誕生日恒例だった、から揚げ。調理中、何かに気をとられて油鍋からはなれてしまい、引火したらしかった。昔からほとんど料理をしない父だったが、から揚げだけは母が作るのをよく横で見ていたらしい。
「そうそう、真那の名前を決めたのもお父さんだったな。真那が生まれるって分かってから、もうあちこちで調べてきてね。それでどこからか、サンスクリットでmanasは『心』を意味するんだって。『マナ』という音は、最高の響きなんだって鼻息をあらくしてね」
母が、遠い目をして笑う。
遅い。そんなことを今、言われても遅すぎる。
「お父さんなりに、いろいろ後悔していたのよ、きっと。それで『深い河』ばかり読んで。救われようとしてたのかな」
そんな話だっただろうか。というか、父だけ救われようとするだなんて……。言いようのない気持ちがぐちゃぐちゃに混ざり合い、真那の胸を駆けまわっていった。
〇
モモタマナの種を手に、まことと砂浜を歩く。
偲ぶにはうってこいの、さびしげな空と海だった。灰色の雲がぶ厚くて、その色を映した波面が、沈みこむように揺れている。
「サワオ、元気でやってるかなあ」
まことがさびしそうにつぶやく。まことは、サワオがいなくなってから、毎日のようにしくしく泣いた。さびしいよお、サワオ。そう言って泣いた。あれだけ毎日、いっしょに遊んでいたのだ。無理もない。
「きっとあのまんまだよ。ゆらゆら浮かんで、またひょっこり現れたりして」
いつの間にか頑丈になったまことの背中を、真那はやさしくなでた。
ざざーん、ざざーん、と波の音が聞こえる。
よく見ると、サワオの言っていたとおり、速いもの遅いもの、長いもの短いもの、いろんな波がある。
「ここにしよう」
モモタマナの種をぎゅっと握りしめ、真那は足をとめた。
いくよーと精いっぱいの声をあげると、大きく振りかぶる。
遠くまで届きますように。
思いきり投げた種は、ぽちゃんと音を立て、一瞬で波にのまれて見えなくなった。きっとそのうちひょこんと浮かびあがってきて、ぷかぷか漂流するのだろう。涙の粒みたいな種はきっと、必要なだれかのところに流れ着くはずだ。
カモメが鳴きながら、灰色の雲の合間を飛んでいく。
まことの肩を両手でぎゅっと抱きしめると、空と海の、境界のかすんだ水平線をしばらくのあいだ眺めていた。
了
※初投稿以降、加筆修正しました。
※参考文献
・『涙の文化学 人はなぜ泣くのか』 今関敏子編
他
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