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【短編小説】見えない骨 


 美月ののどにかますの骨が刺さってから、もう一週間が経っている。

 あいかわらず唾を飲みこむだけでチクリと痛いし、違和感がある。
「いいかげん、病院行ってきたら」

 電話での母からの一言に、うーんとか、まあとか、気の乗らない返事を続けていたら、母は早々にあきらめたようだった。母特有のため息が聞こえる。有音の息のあと、無音の息。

「だって、たかが魚の骨だよ。これで病院行きなんて、時間とお金がもったいない。魚の骨にやられたなんて人類の敗北だわ」

 母にはつい、勝ち気さが倍増してしまう。
「はいはい、みいちゃん、ほんと頑固」

 今年で三十四になる美月をまだ子ども扱いする母にむっとしていたら、話題はもう近所の豆腐屋の話になっていた。

「それでね、おじいさん、最近、お豆腐づくりの合間に太極拳をはじめたんだって。ほら、お豆腐やさん早起きだから。『太極拳豆腐』って商品つくったらいいのにね。太極拳しながらつくったお豆腐なんて健康になれそうよねえ。はあーって、なんかの気が入ってて。何の気かわかんないけど、お母さん二個買っちゃう。あ、そういえばこの前、そのお豆腐を食べてたらね、お父さんが突然口をもごもごしだしたの。誤嚥かと思ってあわてて駆けつけたら、手のひらにぽろって。口から吐きだしたもの、何だったと思う? 魚の骨じゃないのよ。なんと、奥歯! 奥歯がぽろっと、とれちゃったの。もうびっくり。その歯が茶色くて、汚くてねえ。でもお父さんけろっとして、ずっと痛かったからやったーって、子どもが乳歯抜けたみたいに喜んでるのよ。みいちゃんは歯が抜けるといつも泣いていたわね。この話まだ続きがあってね」
 
 すでに長いのにまだ続くのか。美月はスピーカーに切りかえ、朝食の準備をはじめた。母がこんなに話すということは、きっと父は不在で、有樹は調子がよくないのだろう。

「ねえ、みいちゃん聞いてる?」
「うん、聞いてるよ」

「それがね、うちのクロちゃん、お父さんの相棒の。もう十三歳の高齢猫よ。お父さんの歯が抜けた翌朝、クロちゃんが突然起きあがってね、口からぽろっと吐きだしたの。リビングの床がカランって。あら何だろって見たら、固くて茶色の固まりなの。お父さんの歯とそっくりでね。猫も歯槽膿漏になるのねえ。ふたりして、ぽろって。おかしいでしょう。そういえば最近、口が臭い気してたのよ。お母さん、クロちゃんがあくびしそうになったら息止めてたから。それでも臭ったわよ」

 チーン、とトースターの音が鳴る。こんがりと焼いた食パンに、はちみつをたっぷりと塗った。

「あ、行かなくちゃ。ごめん、切るね」
「あ、はいはい。忙しい朝にごめんね。のどの骨、とれるといいわね。じゃあね」

 ほぼ毎朝、電話をかけてくる情緒不安定な母。転職の末、早期リタイアをした放浪癖のある父。中学から引きこもる弟。家計はいつもぐらぐらで、学校で必要なものがあるたび美月はひやひやした。

 あれは忘れもしない。美月が中学一年生のときだった。来客のチャイムに応じて、母が玄関のドアから顔を出した。今思えば、簡単にドアを開けてはいけないのだ。

「こんにちは、奥さん」

 妙に馴れなれしい男の声。二階の自分の部屋にいた美月はそのざらついた声が気になり、耳をそばだてた。

「人生困ったこと多いでしょう。ええ、奥さんもそうですか。山も谷もあります。私もいろんなことがありました。苦しいことのほうが多かったかもしれない」

 空が曇っているせいか、男の声がねっとりと聞こえる。

「でもね、ある時このパワーストーンと出逢えたんです。そうしたら、ほんとうにすべてが拓けていった。ぱあーっとです。何もかも運が味方をしてくれた。世のなかすべて、運と縁です。このパワーストーンはそれを引きよせてくれます。身につければ、負のオーラは消えてなくなる。飾っていただくだけでもオーケーですよ。ご家族の運命が拓けます。月に一回ですね、年十二回、石が届きます」

 美月は窓から下をのぞいた。長いくせ毛を束ねた澱んだ目の男が、黒いハンカチで額の汗をぬぐっていた。

「あ、そうだ。こちらはパワーソープと言いまして、牛乳の匂いがするとても洗いあがりのよい石けんです。これで体や髪を洗うと、運気が倍増いたします。今回とくべつに三個セットでお渡ししますよ」

「あら、ええ? でも……」

「奥さん、お悩みありますでしょう?」

 男は、車庫にとまった旧式のうす汚れたセダンを見やった。美月から母の姿は見えなかったが、ため息だけが何度も聞こえる。

「ほんとうに運気があがるんでしょうか」

 母がか細い声で訊くと、男は目をぎらりと光らせた。
「もちろんです、奥さん。ああ、私の話などよりも皆さまの体験談のほうがよいですね」

 黒光りした鞄から手際よくA4の冊子を取りだすと、読みあげはじめた。パチンコ通いの夫が改心してくれた。姑とのひどい関係が改善した。子どもの病気が治った。

 そのとき父は一週間家に帰ってきていなかったし、弟の有樹は今年度が始まって以降、部屋から出てこなくなった。初夏だというのに、流れる汗がとまらない。あの男はあきらかに変だ。なのにお母さん、なんで話を聞いているんだろ。はやく断ってくれたらいいのに。美月は祈るように目を閉じる。そもそもわが家にそんなものを買う余裕などない。

「おいくらなんですか」
 母の声がした。

 美月は反射的に部屋を飛びだし、階段を駆けおりると、外へ出るなり大声で叫んだ。

「だめーっ!」
「みいちゃん、どうしたの?」

 美月を見る母は一見いつもの母だったが、虹彩がひとまわり大きく見えた。

「おや、お嬢さんですか。こんにちは」
 男がにやりと、頭を下げた。

「こんなものいらないよ」
「こんなものとは失礼ですよ」
 あごを引き、男はくっくと気味悪く笑う。

「あら、どうして? みんなを守ってくれるんですって」
 母が少女のように朗らかに言った。

「お母さん、そんなわけないでしょう」
「みんな、運が味方してくれるんですって」
「お母さん、しっかりして」

 美月を見ているのに、焦点が合っていない。
 お母さんの味方は私だよ。私なんだよ。こんな得体の知れない石じゃない。美月は泣きだしそうになるのをこらえ、母の肩を両手で揺らした。
 
 男はなかなか立ち去らなかった。母は終始おろおろしていた。美月は拳をきつく握りしめ、男をきっとにらみつづけた。

 そのうちに苛立ってきた男が、「邪魔すんな、この小娘がっ」と暴言を吐いたので、美月は飛びだしそうな心臓をおさえ、「警察に電話します」とポケットから携帯電話を取りだした。母が以前使っていた古いものだ。もちろんもう、つながらない。
 男はぐちゃりと顔を崩し美月をにらみつけ、くそがっ、呪ってやる、また来てやるから、などと捨て台詞をたくさん吐いて去っていった。
 
 美月の足が、がくがくと音を立てて崩れおちる。地面に座りこんだ美月の横で、母はただ呆然と立っていた。そのうちに、母はしゃがみこみ、美月をぎゅっと抱きしめた。美月も母を抱きしめかえした。それから母は、子どもみたいにわんわん泣いた。美月の緑色のシャツが母の涙や鼻水を吸いこみ、濃い緑へと変わっていく。私の服で足りるだろうか。美月は心配になった。強くなりたい。そう思った。
 
 後にも先にも、この日のできごとを母と話したことはない。
 

*** 


 美月のオフィスは街のど真ん中にある。
 まだ紫陽花の残る季節だというのに電車は冷蔵庫みたいに冷えていた。
 
 今日も紺のパンツスーツと、ヒール五センチの白いパンプス。きっちりと見せながらも、いざというときにも対応できる防護服だ。たとえば、回し蹴りなど。美月はあの日以来、親戚の空手道場に通いはじめた。有樹も最初のころは一緒に行っていたのだが、すぐに辞めてしまった。
 
 電車を降りて階段をあがると、職場は目の前だった。
 ずきんと、のどが痛む。
 電車に乗っても、歩いても、エレベーターに乗っても、絶えずちくちく美月ののどを刺している。

「うん、んん。おはようございます」

 前方に菅田局長を見つけて挨拶をしたが、うまく声が出なかった。朝より悪化しているようだ。

「おう、おはよう、有賀くん。今日もまたいちだんとスタイルがよろしいですねえ」
 菅田局長は、美月の全身をなめまわすように見た。

「録音しますよ」
 美月が言うと、局長は、おお、こわ、こわと言いながらもにやにやと足早にどこかへ去っていった。大手総合商社に勤める美月は、この手の嫌がらせには慣れていた。もちろん会社全体としては、男女平等という大義名分のもと働き方改革も進んでいるように見える。
 でも実際はというと、菅田局長のようにあからさまなことを言う人間もまだまだいるし、出世しそうな女性を内心うとましく思っている人間も少なくない。

 でも、ここで働くのだ。美月はこころに決めていた。なにせ、お給料がいい。新卒で就職してから、美月は実家に仕送りを続けていた。母は好きなように使いなさいと言ってくれたが、両親の年金で弟を食べさせていくのは容易なことではないはずだ。
 
 母は銀行の入金を確認するたび、ありがとう美月、と連絡をくれた。お礼なんていらないよ、と言いながらも、実感のこもった「ありがとう」は、美月の原動力だった。

「有賀さん、今日のプレゼン、期待してるよ」

 美月が席に着くなり、隣の席の光岡くんが、声とプレッシャーをかけてくる。優秀な彼は美月をライバルだと思っていて、いつもこういうひと手間を惜しまない。

「うん、ありがと」

 そう答えたつもりだったが、美月の口からは、息がもれ出ただけだった。

 今日は大事なプレゼンがある。大きな外資系の企業と共同で行うプロジェクトに、GOサインがもらえるかどうかがかかっている。
 スライドの準備は、いつも通りばっちりだった。それなのに、のどが痛くて声が出ない。唾を飲むだけでも痛い。急いで売店へ行き、のど飴を買ってなめてみたが、ちくちくにすーすーが加わっただけで、大した効果はなかった。

 気が重い。でも、やるしかない。逃げ道など最初からどこにもないのだ。父がふっとどこかへいなくなる時も、母が夜中にグラスをひとつずつ割る時も、有樹の部屋から沈黙しか返ってこない時も、美月がどうにかするしかなかった。

 時間は刻一刻と進み、プレゼンの時間がせまってくる。最大で三十人ほどが入れる会議室に移動すると、そこにはプロジェクトに関わる他社の人々が集まってきていた。パソコンの準備をしながら、美月は咳払いを何度もしたが、のどの通りは悪かった。

「さあ、皆さんおそろいのようなので、会議をはじめたいと思います」
 上司が声を張りあげる。トップバッターの美月は部屋の隅で待機していた。

「さあ、では有賀さんからお願いします」

 いつもなら緊張もせず難なくこなせるプレゼンなのに、今日は足が鉛のように重かった。美月は前に出て一礼し、はじめさせていただきます、と挨拶をした。

 のはずが、声が出ない。有声と無声の入りまじったすかし音。美月本人でさえ、なんと発声されたのかわからなかった。美月は、かまうものかと話を進める。スライドの一枚目を説明する。出席者が横の人と顔を見合わせ、ささやき合うのが見えた。

「それで、このヘルスケア部門と衣料の問題を組みあわせることによって……」
 一枚目を終え、次のスライドへ移ろうとしたとき、見かねた上司が美月に言った。
「有賀くん、大丈夫ですか? 声がまったく出ていませんよ」

 会議室が静まりかえる。

「……実は、のどに骨が刺さりまして」
 美月は正直に伝えたが、この言葉も理解されることはなかった。ただ、次の瞬間、会議室がどっと笑いに包まれた。

「今日はお話ができないようなので、今すぐ病院へ行ってきてください」
 渋る美月に上司が小声で、「大丈夫。君のプレゼンはまた機会を設けましょう」と言ったが、そんな機会、二度とこないと美月はよく知っている。恥と悔しさが、頭をぐらぐらと泳ぐ。

「さあ、次は光岡くん。よろしく」
 上司の声と同時に、光岡はすっと立ち、爽やかな笑みを浮かべて、美月のスライドを消した。突っ立ったままの美月を、皆が見ている。お前はもういい。そう聞こえた。

 美月は深々と一礼をして、会議室を飛びだした。唇を強く噛み、こぼれ落ちそうな涙をこらえる。ベージュのトートを雑につかんで、エレベーターに飛びのった。これまでどんな屈辱にも耐えてきた。耐えてきたのに。
 
 行き先のない道を足早に駆けぬける。あてもないのにスピードを緩めることができない。私はいったいどこに行こうとしてるんだろう。手の甲に雨粒を感じる。空を仰げば、これでもかというほど青く晴れていた。腫れているのは私の目だ。こんなことで負けてたまるか。そう思いながらも、肚に力が入らない。無重力でひとり手足をばたつかせているような。何かにしがみつきたいのに、まわりには何もない。木切れ一本でいいのに。美月はただ歩きつづけた。
 
 路地裏を抜けたせいか、見慣れない道に出た。
 顔をあげた瞬間、奇妙な形の看板が目に飛びこんでくる。

『骨とります(小骨も可)
 木野根耳鼻咽喉科・ショキカケンキュウジョ』

 のどの骨は耳鼻咽喉科に行けばいいと、母が言っていたのをふと思いだす。
 病院に行く気はなかったが、今日はもう仕事もできない。のぞいてみるだけでもいいか。美月はそう思って、ビルの横の細い階段に足を踏みいれた。三階まで上がったところで、小さな茶色のドアが見える。
 
 息を整えながら、自動消毒の機械に手をかざす。ペンギンの口からジェル状のアルコールがどろどろと流れでる、見たことのないタイプだった。手をすり合わせ、ドアを押すとカランカランと音がした。
 
 受付には四十代くらいの女性がひとり座っていた。美月を確認すると、こんにちは、と感じよく微笑む。

「初診ですか」
 美月がこくりとうなずくと、保険証をお願いします、と女性は言った。財布から保険証を取りだし、女性に差しだす。

「では、問診票に記入を。掛けてどうぞ」
 ボールペンとクリップボードを手に、隅のソファーに座る。いたって普通の病院だ。微妙な黄土色のソファーは張りがあるともないとも言えないが、案外座り心地がいい。
 
 ええと、どの部分ですか。「鼻」じゃない。「耳」でもない。「のど」。
 「のど」の欄には「風邪を引いた」「腫れている」などあったが、そのどれでもなかったので、その他を選び、カッコ内に、魚(かます)の骨が刺さった、と書きこんだ。
 
 ボードを渡すと、女性は問診票を見て、ああ、かますですか、おいしいですよね、大きめだったかな。けっこういらっしゃるんですよ、のどに骨、と言った。
 美月はかますが大好きだった。母が昔よく焼いてくれたのだ。骨は少し多いけど、柔らかくてやさしい味がする。

「今日は、ショキカ希望ということではなかったですよね」
 ぽかんとして、ショ、ショと息を吐く美月に、
「あ、違いますね。ごめんなさいね。最初からショキカだけを希望して来院される方もいらっしゃるので、院長に訊くように言われているんです。ではもうしばらくお待ちください」

 女性のえくぼに、ぼんやりと見とれる。
 ショキカ……。そういえば看板にもあったな。ショキカってなんだろう。院内の壁をきょろきょろと見回す。特にそれといった情報はなかった。

「有賀さん、有賀美月さん。診察室へどうぞ」
 名前を呼ばれスライド式の白いドアを開けると、なかには五十代くらいの男性がちょこりとイスに座っていた。

「あー、どもども。今日はどうされました?」
 芸人のような軽い調子に拍子抜けしたが、美月も腹話術の人形のように口をぱくぱくと開けた。
 
 医師は問診票とのどを指さす美月を見ながら、
「あー、のどの骨ですね。鯛はね、きついですよ。ああ、かますか。こりゃ、かますにかまされましたね。はっは」
 と言って高らかに笑った。
 
 美月の眉はぴくりともしなかったが、医師はかまわず続けた。
「はい。さて、見てみましょう。マスクをとってください。はい、口を大きくあけて」
 見えるところにはないことを、美月はわかっていた。自分で鏡を見て嗚咽しながら何度も骨を探したのだ。
 
 案の定、口の奥には見つからなかった。

「じゃあ、鼻からカメラを入れましょうか。ほそーい管なので、そんなにきつくはありませんよ。あ、右がいいね。じゃ鼻に痛み止めのスプレーを、はい、しゅっしゅっと」
 
 手際よく鼻にカメラが入っていく。美月はなされるがままだった。きつい。手をぶらんと下に垂らす。かます、食べなきゃよかった。後悔の念が押しよせる。
 
 するすると入りこんでいくカメラ。目の前の大画面には、自分ののどだといわれるものが、でかでかと映しだされた。

「はい、これから皆さんで探しますよ。見つけた人、優勝です」 
 これまで後方にいた二、三人の看護師さんがわいわいと画面に近寄ってきて、私ののどをまじまじと見た。妙に恥ずかくて苦笑する。
 医師がカメラを動かしていく。はい、右。ありませんね。はい、左。うーん、ありませんね。奥までいきます。あ、ここ声帯。皆さん、よく見て。かますです。目をこらして探してください。ありましたか。

 おそらく三分ほどだったのに、美月にはとてつもなく長く感じた。なのに、なかった。骨がない。こんなに痛いのに。声も出ないのに。せっかく病院まできたのに。美月が絶望しはじめたころ、医師が妙なことを言いだした。

「あー、そそそ。これはですね、有賀さん。かなり無理をしてきたのどです。見えない骨がぐさりと刺さっている可能性のあるのどですね。のどだけのことではないんです。奥の方にももっとあるかもしれない。たまってきたものがとうとうのどにまで到達してきた、ということです。一週間、二週間であらわれる痛みではない。十年、二十年。骨がじわじわと発生し、硬く大きくなっていく」

「見えない、骨?」

「うん、そそそ。あなたは感情的に無理をすることが多かったのではないでしょうか」

 美月は医師の口もとをただ見た。なんだ、この医師。思考がうまくまわらない。どうして、そんなことが耳鼻咽喉科でわかるのか。美月の鼓動が激しく波を打ちはじめる。

「どうして……」
「わかるかですか? それは私がのどの専門家だからです。いろんな方ののどを見てきました。やはり違いがあります。おそらくあなたの場合、もともととても繊細なこころをお持ちでいらっしゃる。なのに無理をして、強さで押しきろうとしてこられた。そこに歪みが生じ、体の内部に、まあ胸から上のあたりにですね、たまってきた。骨のように石化したものがのどまで到達し、とうとう痛みを発するようになった、といったところでしょうか。ほら、『苦しい』と感じるときは、脳内にストレスホルモンが出るのはご存じでしょう。ノルアドレナリンとか、コーチゾールとか。『楽しい』と感じるときは、ドーパミンやエンドルフィン、セロトニンなんですよね。これが通常なんです。あなたの場合は、わかりやすく言うとですね、逆なんです。ねじれている。『苦しい』ときに『楽しい』物質が出てきたり、その逆もしかりです。実際はもっと複雑な感情と脳内物質が存在しますが、それらがぐちゃぐちゃに乱れて、絡み合って、骨を大きくさせている。おそらく今そういう状況ではないかと。これはあくまでも私のひとつの予想です」

 医師は一気に話すと、呆然とする美月に小さな名刺を差しだした。

「木野根、と申します」そこには『ショキカケンキュウジョ』とあった。

「それでですね、もちろん、物理的にですね、のどの骨をとりたいということならば、今カメラで探しました。ない。見えない。この骨は見えないんです。痛みはもちろん変わらない。このままお帰りいただくのは、医師として大変心苦しい。痛みを取りのぞくという使命感が、まあ、私なんぞにもあります。カメラが外科的であるならば内科的といいますか、いやちがうな、クリームパンのパンなら、中のカスタードクリームといいますか、いや遠のきましたね」

 木野根はぼりぼりと頭を掻いた。美月はただぼうっと木野根を見ていた。

「まあ、そんな感じで、そういう痛みをどうにかしたいと思いたち、ショキカケンキュウジョというものを、この四月からですね、たちあげました。ケンキュウジョですからね、実はまだ研究段階なんです。要は、入り組んだ感情をショキカ、ええ、初期化ですね、してしまおうというものです」

「初期化?」

「はい、初期化。ほら、iPhoneなんかもそうでしょう。ずっと使いつづけていると、『システム』だとか『その他』だとか、もうようわからんものがストレージのほとんどを占めてしまって、新しいアプリ入らへんやんって。あれですね。人間もそうですよね。家族、仕事、育児、介護。人生の作業をくりかえし続けていると、余計なものまで抱えこんでしまう。それを一回まっさらに戻して、ほんとうに大切なことだけを残す。携帯の機能であれば、電話とメールがあれば私なんかは十分です。今のひとは違いますか。どうなんですかね。とはいえそれで本体がパンクしてしまっては、元も子もないですよね」

 話しつづける木野根の話は、わかったようでわからない。
 険しい顔をした美月に、木野根はつづける。

「もうね、今の時代、いろいろ複雑になりすぎていると私なんかは思うんです。人間もね。それでもっとこうシンプルに、元に戻していこうという取り組みです。私、実はこう見えて、医療機器をつくる研究をしてきましてね。あ、そう見えますか。それで、自分で機械を作ってしまった。その名も『人間ショキカ装置』です。ドラえもんみたいでしょ。もっと気の利いた名前をつけたかったんですけどね、センスってありますもんね。大すべりするくらいなら、お堅く逃げようという魂胆です。名前の話はどうでもいいですね。とにかく、MRIのような装置に入ってもらえたら、あっという間にショキカが完了します。雑多な感情を取りのぞき、自分がもともと有していた感情、性格が戻ってくるのです」
 
 美月はまだ、難しい顔をしていた。木野根は美月をふむと見て、じっと動きを止めたかと思ったら、机上のノートをぺらぺらめくり、美月のほうに向きなおった。

「ああ、そそ。こころから笑うことができるようになります。これがショキカのいちばんの利点です。シンプルに、自分らしく」
 どっかで聞いたことのあるフレーズですかね、もっとうさんくさくなるかな、どういうのがいいのかなあ。ペンを片手にぶつぶつ言う木野根に、美月は言った。

「おねがいします」
 美月はじっと木野根を見た。
「はい、わかりました。こちらへどうぞ」
 木野根ののどが、こくりと動く。美月の背中を押せたことに木野根は手ごたえを感じていたようだったが、実際のところ、美月はただ、いろんなことがどうでもよくなったのだ。もちろん、こころから笑いたい。でも、もう疲れた。こじれた家族も、仕事も、自分自身も。そんなこと、絶対に思ってはいけない、口にしてはいけないと、これまで自分を厳しく取り締まってきた。でも、もう全部に疲れた。

 初期化したあとの私は、どんな私になっているのだろうか。わからない。わからないけど、どんな私でももういい。自分らしい、なんて、どれが自分らしいのかもわからない。投げやりに近かった。 
 
 木野根について隣の部屋に入ると、大きな装置がぽつんと置かれていた。水色の壁のせいか、部屋の空気がひんやりとしている。

「ささ、ここに寝ころんで、あとはリラックスしていてください」
 言われたとおりにして、合図を待つ。

「はい。では、いきまーす。ショーキカ、カチーンコーン!」
 装置がぴかりと光った。

 目をつむる美月の頭なかを、走馬灯のように何かが走る。
 父が正社員だったころ買ってきてくれたホールケーキ。美月を抱きあげた母の笑顔。どろんこ遊びで笑う有樹。家族はいったい、いつから一方通行になったのだろう。美月の頬に涙がひとすじ流れた。


「終わりました。どうですか? ご気分は」
 美月は手で頬を拭い、ゆっくりと起き上がる。ご気分はと言われてもよくわからなかったが、とりあえず、木野根の目がとても輝いて見えた。順番を待ってようやくポニーに乗れた子どものように。
 
 窓の外は明るかった。空は青いし、雲はゆったりと動いている。自分の右手で左手をさわる。こんなにすべすべだったか。もともとこんな感じだったか。……思い出せない。母の顔。父の顔。弟の顔。大きな枠組みは覚えていたが、細かなことがわからない。家族の性格。思い出。思いだせない。うっすらと出かかったかと思ったら、ズキンと頭が痛んで消える。
 
 木野根に状況をぽつりぽつりと伝えると、
「ああ、なるほど。そうきましたか。有賀さんの場合、けっこう初期化されましたね」
 と、木野根は、新しい実験結果を得られた研究者のような、興奮した顔をしていた。その表情に、美月は腹が立ってきた。

「待ってください。記憶をなくすなんて聞いていません。私と家族。それは私の記憶だった。私にしかなかったのに」

 うまく言えない。どうしようもなく。ただ、悔しくてふるえた。

「おお、声がしっかり出ましたね! 骨は消えたかな。のどの痛み、ありませんか」

 木野根にそう訊かれて気づいた。
 のどには痛みも違和感もない。もともとの美月の声だった。

「……それより、これまでの記憶はどうなるんですか。私の家族との、たとえば母の料理の味とか、父のくだらないお土産とか。不味くても、ぐちゃぐちゃでも、汚れてても、それは私のものだった」

 美月はぼやけた記憶を、必死で思いだそうとしていた。

「有賀さんは、ご家族を大切に思われていますね。感情の初期化をしても、そこはブレない。真っ先に出てくる。それが有賀さんのほんとうの感情ですね」

 木野根はふむふむとうなずき感心している。

「私の記憶をかえしてください。たしかに美しいものではなかったけれど、私の大事な一部だったんです。私の生きてきた証だった。それなのに……」

 唇をかむ美月に、木野根はあわてて言った。

「ああ、えっと、伝え忘れていましたかね。ショキカをするときは必ず、バックアップをとっています。復元できますのでご安心ください。ええ、iphoneのように。復元すれば元の記憶は戻ります。ただ、絡み合った余計な感情はリセットされていますので、よりシンプルになり、容量が増えます。少なくとものどの痛みは取りのぞけましたので、ショキカ大成功ですね。ああ、よかった。ではフクゲンしますので、もう一度装置へどうぞ」
 
 美月は、腰が抜けそうになった。なんだよそれ。はやく言ってよ。
 それにしても、あんなにどうでもいいと思ったのに、必死で記憶を取りかえそうとするなんて。自分で自分が笑えてくる。
 
 美月はふわりと装置に乗りこみ、木野根の合図を待った。
「フクゲーン、カチーンコーン!」
 あいかわらず変な合図が聞こえてきて、美月は思わず、むふふと笑った。   

                 
                 了


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