セロハンテープの先っぽの善意
折り返されたテープの先が、たまらなく好きだ。
ビニール袋などに貼られたセロハンテープの片方を、ほんの数ミリ折り返したあの部分。
この素晴らしさに気がついたのは、高校生の頃だった。
あの頃、わたしは母に毎朝お弁当を作ってもらっていたのだが、汁漏れが心配される日に、母は必ずお弁当箱をポリ袋に入れてから、布の袋に入れてくれていた。
ある日のお昼時、そのポリ袋を開けようとすると、テープがぺたりと貼られていた。そのテープの先は小さく折り返されている。なんだ、これは。わたしははじめて、テープの折り返しというものに出合った。おそるおそる、その折り返されたテープの先をつまんでめくる。
は、剥がしやすい!
ペリリときれいに、それも一瞬で剥がせる。
ビニール素材にテープがベタリと貼られていたら、剥がすのに手間取る。下のテープの端をめくるのは難しい。かといって上から攻めて最も恐ろしいのは、テープの怒りにふれることだ。経験のある方もいらっしゃるかもしれないが、テープは伸びる。一度伸びると、なかなか切れない。強度が増す。絶対に剥がれてなるものか、という強い意志。こちらも意地になる。さらに伸びる。伸びたテープが固い糸のようになって手に食い込む。手が赤くなる。痛い。
ここまでくると、ハサミが必要になる。でも手元にない時は絶望的。
もはや怒りにまかせて、ビニールを破るしかなくなる。
家に帰って、こんな画期的な方法があるんだねと、有り余る感動を母に伝えた。
そうしたら、母は、
「え? お母さん、そんなことしてた?」
と言った。
こっちが、「え?」である。
真相は分からないままだが、その時受け取った感動を今も忘れられない。
テープを折り返すのにかかる時間は、せいぜい1秒くらいだろう。
その折り返されたテープを剥がすのも、1秒くらい。
でも、もしベタリと貼られたテープだったら、きっと剥がすのに3秒~5秒、手こずればさらに時間がかかる。イライラもする。
私はテープが伸びるのが、とても苦手なのだ。
今でも、お店の袋などに折り返されたテープを見つけたら、そのたびに感動してしまう。折り返してくれた誰かに感謝し、小さな幸せをもらっている。
***
人それぞれというのは重々承知の上だが、トイレットペーパーの折り返しとなると、また違う。
園児だった頃、
「トイレットペーパーは次つかう人のために折り返しましょう。これを『思いやり』と言います」
と、先生が言っていた。
大抵のことは憶えていないのに、この言葉だけはよく憶えている。
『トイレットペーパーの三角部分=思いやり』
子どもの頃の私は、『思いやり』が何なのかも分からないまま、あの三角の部分に思いやりというものが詰まっていると、信じ込んでいた。
ただ残念ながら、言われたからやるというのができないようなへそ曲がりな子どもだったので、トイレットペーパーを見つめ、その都度葛藤しながら気が向いた時だけ、こそばゆさを感じつつトイレットペーパーを折り返した。
それでもやっぱり、あの三角には思いやりが詰まっているのだと思っていた。
それから大きくなるにつれ、その三角に違和感を持ち始めた。
トイレットペーパーの先を三角に折りたたむには、少なくとも3秒かかる。
でも、使う時はどうだろう。
三角でもそのままでも同じ1秒くらいで、それほど変わらない。
先が長く垂れていたり、ぐるんと巻き付いていたりと、トイレットペーパーの状況はその時それぞれだが、いずれにせよ、そこまでの時間を費やさない。実際に、トイレットペーパーがどんな状態であれ、私はストレスを感じることがなかった。
となると、折りたたむほうの思いが強すぎるのではないか。折りたたむ側と折りたたまれる側の思いが、釣り合わない。これだと自己満足になってしまうのではないか。思いやりとは、心をもらう側がありがたいと感じるからこそ成り立つものなのではないだろうか。
もちろん三角のほうが使いやすいと感じる人もいるだろうし、人を思いやる行為にあれこれ言うのもおかしいのかもしれないが、私の正直な感覚である。
だから、たまにトイレで三角に出合った時、誰かの時間を費やして折られた三角へ感謝の意が持てないことを、申し訳なく思ってしまう。
***
何の話だったか。
とにかく、折り返されたテープの先は最高である。
ところが昨今、そのセロハンテープの折り返しを脅かす存在が現れた。
マスキングテープだ。
これがとてつもない逸材で、ビニールに貼っても剥がしやすいし、再び貼ることだってできる。さらには、テープの上に文字まで書ける。この便利さを知った時、私は不覚にも、セロハンテープの折り返しが滅びてしまうのではと思った。
ファンだ、などと言っておきながら、私は今、ビニールにテープを貼る必要がある時、ついマスキングテープを選んでしまっている。本当に心苦しい。
唯一、セロハンテープが勝てるとしたら、コスト面だろう。
お店などでは、セロハンテープほど大量にマスキングテープを使うことはできない。
***
手放した善意が、どう消化されるのか。
よかれと思ってしたことが、余計なお世話になってしまうのは悲しい。その塩梅はとても難しいし、感じ方は人それぞれなので、正解はないのだと思う。
それでも、小さな手間とともに送り出した善意を、場所も時間も違うところで、誰かが受け取るかもしれないという浪漫。セロハンテープの先のように、小さく日常的なものだからこそ、そのさりげなさが特別に好きなのかもしれない。
直接的に渡されるものではないけれど、いつかどこかで感じてもらえる可能性のあるもの。目には見えないけれど、伝わるかもしれない思い。文章からもこういうものを受け取れるから好きなのだと思う。
いよいよ、何の話だったか、分からなくなってきたけれど、折り返されたセロハンテープの先が好きなのだ、というお話でした。
***
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
お久しぶりの投稿になってしまいました。
noteを開くたび、細々とも書いていないじゃないか、と自身のプロフィール欄に突っ込んでいたのですが、どうやら今日で1年が経ったようです。読むほうもマイペースでなかなか追いつけず恐縮なのですが、面白く読ませていただいています。
いつもありがとうございます。