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小説『モモタマナと泣き男』 第5話


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         9.
 
 父を乗せたワゴンは五時きっかりに、民宿の前に到着した。
 母と一緒にむかえに出る。緊張しないわけがない。罵声を浴びる覚悟もできている。もう、逃げるわけにはいかない。真那はこくりと唾をのんだ。
 
 車内から、オレンジ色のポロシャツを着た男性が「ただいま帰りましたー」と、ほがらかな声であいさつしながら降りてきた。

 男性にあいさつをかえしたあと、「あれが遠山さんよ」と母が真那に小声で言った。なぜか勝手に五十代くらいの女性をイメージしていたが、実際の遠山さんは真那よりも若い男性で、髪を明るい茶色に染めていて、垂れ気味の太い眉毛が、なんとなく人のよさを感じさせた。
 
 遠山さんに手を差しだされ、奥からもそもそとはい出してきたのは、父だった。真那の心臓がとくんと鳴る。頭皮ののぞく、うすい髪。目尻にも鼻の横にも、彫刻刀で刻まれたような深いしわ。目鼻はもはや落ちくぼみ、以前の面影はほとんど残されていなかった。
 それでも、父だと確信できたのは、右目の下に大きなほくろがあったからで、顔も身体も肉がしぼんでひとまわり小さく見えるのに、そのほくろだけは黒々と存在感を増していた。
 
 遠山さんに支えられ、ワゴン車の段をゆっくりと一段ずつ降りてくる。白くぽってりとした靴は、施設に通うために買ったのだろう、父の好みではなさそうだった。

「気をつけてくださいよー、ゆっくりでいいですよー」
遠山さんの気遣う声に、父は、はいはい、ありがとう、とおだやかな声でかえしている。デイサービスという場所で、父はいったいどんな父でいるのだろう。ようやく地面に両足をつくと、腰に手を当て、ぐっと反らした。その時ようやく、父の視界に真那が入った。
 
 その瞬間、父はみるみる血相を変えた。さっきまで凪いでいた瞳の海は、荒れ狂ったように揺れはじめ、よろめいて見えた足腰を刀のようにすうっと伸ばすと、母から渡された杖で真那のほうを勢いよく指した。

「なんで、ここにいる」
 以前ほどの迫力はなかった。声量もおとろえた気がする。だが、そのしぼみが逆に、ちがった種類の気迫をうみだしているようで、真那の身体はびくんとふるえた。

「ただいま」
 真那はできるかぎり、おだやかにこたえた。

「なんで、真那がここにいるかと訊いているんだ」
 落ち着いた態度が気にさわったのか、白い眉を大きくゆがませた父は、ふたたび厳しい口調で言った。どこから話せばいいのだろう。何を伝えれば分かってもらえるのだろう。やっぱり、分かってもらえる日など来ないのかもしれない。

「わたしが頼んだんですよ。真那の顔を見たかったから」
 母が父の耳元に近づき、やさしく言った。 
 父は、ふん、と鼻を鳴らすと、しっかりとした足どりで、中へ入って行ってしまった。

「娘さんですか? いいですね」
 近くにいた遠山さんが、何ごともなかったかのように顔色を変えずに言う。母も、はい、そうなんです、とどこかうれしそうにしている。
「桃田さん、娘さんのこと覚えていましたね。名前も顔も。すごいですね」
「そうね、驚きました」
 小さく微笑んだ母に笑いかえすと、「じゃあまた来週ですね」と、遠山さんは車に乗り込んでいった。

 丘を降りるワゴンが、徐々に小さくなっていく。夕陽を浴びたそのワゴンの背中を、真那はしばらく見つめていた。





      第2章  芽吹く春


           1.

 赤い葉の落ちきったモモタマナは今、芽吹きの時期をむかえている。
 ぽかぽかとした陽気の空に向かって萌えたつ若葉は、まるで木に咲いた緑色のチューリップのようで、目にするだけで自然と心が上向いてくる。
 
 父とはあれから、まともに会話をしていなかった。家を追い出されるのも覚悟の上だったのに、あれ以来、父は真那の名前を呼ぶこともなく、声を荒らげることもなく、しょぼんと萎みきっていた。問いかけても反応はなく、真那を認識しているのかどうかさえも定かではない。
 
 父はよく、モモタマナの木の下で本を読んでいた。サワオが木陰にイスを用意してくれたのだという。読む本はいつも決まっていた。遠藤周作の『深い河ディープ・リバー』。読み終わっても、また1ページ目にもどって読むのだという。母がちがう本を用意したり、遠山さんが施設にある本を勧めてくれたりもしたのだが、父は『深い河』しか手に取らなかった。そのおかげというのも何だけれど、ひとりで出かけることはなくなっていた。


 ようやく、民宿の仕事にも慣れつつあった。
 広間、浴室、トイレにロビーの掃除。くわえて客室の清掃と、シーツなどのリネンの交換。リネンの洗濯や乾燥も、自分たちでやる。朝は朝食の配膳と、戻ってきた食器の片づけ。あとは不定期に、庭の草抜きや、ふたつ並んだ花壇の手入れ。雨の日が増えると、草はおそろしいほど伸びてくる。
 
 普段は、宿泊客の朝食を片づけおえると、家族そろって遅めの朝食をとることにしていた。

「おはよー」
 今朝もサワオとまことはふたりそろって、テーブルの前にあらわれる。ふたりはいつの間にやら、同じベッドで寝るようになっていた。
 
 まことはよく、サワオの白いTシャツを借りて着ていて、そのだぼだぼ具合が少しかわいい。とはいえ、サワオの服はただでさえ数が少ないので、「自分のパジャマを着なさい」とまことにはいつも言っているのだが、起きてくるとやっぱりサワオのTシャツを着ていた。
 サワオはサワオで、ライオンのように膨れあがった髪の毛をなびかせ、大きなあくびをしている。

 家族の朝食を用意するのは、真那の担当だった。
 小鉢など宿泊客用に作って残ったもの以外に、卵焼きやレタス、トマトなどを皿に盛りつける。なんの変哲もない朝食だったが、レタスもトマトも新鮮なせいか、この町の野菜はみずみずしくて甘かった。

「卵焼き、ちょっと辛すぎな」
 サワオがえらそうに批評してくる。一瞬むっとしたけれど、たしかに少し辛いかもしれない。となりの父は、ただ黙々と咀嚼に集中しているようだった。

 まことはレタスを箸でつかむと、そのたびに鼻をつまんでコップの水で流しこんでいた。
「おいおい、まことちゃん。そんな大げさな食べ方しなくても」
 サワオが茶化すと、まことはふぐみたいに口をぷくっとふくらませた。
「だって、たべなくちゃいけないし」
「え、なんで? レタスきらい?」
「……きらい、だけど、きまりだし」

 まことが真那のほうをチラリと見やる。その視線を追ったサワオと目が合う。なるほどなと頷いたサワオが、にっと笑った。
「そんなきまり、やぶっちゃえよ。レタスなんか食べなくても、そうそう簡単には死なねえよ」
 まことが複雑そうな顔で、手をとめる。
「ちょっと、勝手なこと言わないでよ」
「勝手なのはどっちだよ」
「まことには、好ききらいなく何でも食べられる大人になってほしいの。それが、まことのためなんだから」
 素知らぬ顔で卵焼きにかじりつくサワオは、聞いているのかどうかよく分からない。そもそもサワオには「責任」というものがない。だから、平気でこんなことが言えるのだ。

「好ききらいなく、って無理があるだろ。きらいなものも何でも食べろってこと? あんたみたいに?」
「いつか好きになるかもしれないでしょ」
 何でも食べるのは、大事なことだ。
「そうやって、自分に思いこませてるだけなんじゃないの?」
「何が言いたいの?」
「そうやってむりやり、好きもきらいも均して、そのうち、ほんとうに好きかきらいかどうか自分でも分かんなくなってんじゃねえの? ってこと」
 真那の顔が、かっと熱くなる。
 だから何? そうだったら何? それの何が悪いのか?
 好きだとか、きらいだとか、声を大きくして言ったところでむなしくなるだけなのだ。

 第一、レタスごときでこんな言い争いをしたくはない。
 真那がおし黙っていると、「ぼく」と、となりから小さな声が聞こえた。
 まことが、大きな瞳をくるくる回して、意を決したように言った。

「レタス、たべられるようになるよ。いまはすこしにがてだけど、でもきっとすきになるから」

 そう言って、まことは残りのレタスを箸でつかむと、ぱくっと口に放りこんだ。苦みを感じたのか、ぎゅっと眉をしかめたあと、丸呑みのスピードでごくんとのどを動かす。

「まあ、まことくんえらいねえ」
 母が手をたたく。ぱちんぱちんという音が、真那の耳の奥で重くひびいた。
 何をやっているんだろう。何が正解なのだろう。さっぱり分からず、頭がしめつけられていく。まことをほんとうに育てていけるのか。抑えこんでいた疑問が渦のように湧き上がってきて、呼吸がうまくできなくなる。
 
 目の前のまことは、母にほめられたことがうれしかったのか、はにかみながらも少し誇らしげに笑っていた。

 

            〇 


 朝食を終えると、「サワオ、むしとりいこう」と、まことはサワオの手を引っぱり外へと連れだした。真那は、おさまらない気持ちをしずめながら、食器の片づけをはじめた。

「サワオにももう少し、民宿の仕事まかせられないの?」
  苛つきの残った声で真那が言う。となりの母は、えー? と語尾をあげると、やわらかな顔でほほえんだ。

「サワオくんは大切な客人まれびとなんだよ」
「でも、宿泊代も払ってないんでしょ?」
「うーん、でもほら『弔いの式』もやってくれてるし、この前はベランダの修理もしてくれたのよ。お父さんの特等席、あれもいいでしょう? あのイス、サワオくんの手づくりなの。ほんと器用ね」
 
 窓の外を見ると、朝食を終えた父がモモタマナの木の下で本を読んでいた。サワオが作ったというイスは、脚といい背もたれといい、絶妙のカーブを描いている。
「掃除もちょこちょこやってくれるし、何より、まことくんの面倒もみてくれてるじゃない?」
 それはその通りだった。
「あと、料理はむずかしいみたいだし」
 なんだよそれ。人の卵焼きにケチをつけるくらいなのだ。料理だってやればできるだろうに。
「なんで? やってみたら意外とはまるかもよ」
 真那が軽い口調で言うと、母の顔がめずらしく曇った。

「サワオくん、火がダメみたい」
「火?」
「うちのガス、直火でしょ。だからサワオくん、あまり台所に入らないの」
 火が苦手? あんなにえらそうなやつが、火が怖いなんてありえない。

「何かイヤな思い出とかあるのかな。最初ここに来たとき、お湯の沸かし方を伝えようと思って台所に呼んだのよ。火を付けたら、サワオくん、パニックになっちゃって。わああーっと叫びながら、外に飛びだしていってね。結局、海まで。しばらくしたら落ち着いたんだけど」
 冷静沈着を体現したようなサワオが取りみだす姿など、想像できない。

「聞いても、何も話してくれなくてね。というか、自分でもどうして怖いのか、はっきりと分からないみたい」

 不安症状のひとつとして、火恐怖症があるというのは聞いたことがある。でもサワオの場合、そういった症状が出る性格だとは思えない。もちろん、性格だけで判断するのはちがうのかもしれない。でも、やっぱり真那には疑問しかわいてこなかった。サワオはいったい、何者なのだろう。

 食器をすすぎ終えたのち、水をとめる。締まりのわるい古い蛇口から、つつつと水が数滴したたって、真那の手の甲をすべり落ちると、銀色のシンクへ溶けていった。



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