〇〇が抜けると「あんなこと」はできない
「あんなこといいな、できたらいいな」と未来の話をするのは、ドラえもんの放送日を待つよりもワクワクしちゃう。
だけど、あれできたらいいよね、これできたらいいよね、と空論ばかりが広がりすぎるのは、なんだか21世紀を超えて22世紀を待つようなぽけーっとした気分にもなる。
なにかひとつのことを動かすときには、どんなことをやれるかの選択肢は、広げられるだけ広げられたほうがいい。単純に「あんなこといいな」の数はたくさんあったほうが楽しいよね。
だけど、実際にやるときにはひとつのことしかできないわけだし、広げたものを狭めていかないといけない。そのときの狭め方として、主語をつけるってのはひとつある。
「できたらいいよね、と言ってるけど、そんじゃさ、実際、だれやるの?」
そんな問いが飛ぶと、その場の人たちはすごくギクッとなる。黙る。だけど、これは詰めていかないと、やれるものもやれるわけがない。
あんなこといいな、できたらいいな。それを、自分以外のだれかがやってくれれば、そりゃ楽なことはないさ。その時がくるまで、待つというのも選択のひとつだと思う。
だけど、本当に、自分が「できたらいいな」と感じているんなら、その主語をHeとかSheとかSomeoneとかにしないで、Iにできるといいよね。いきなり、ひとりでやるのがしんどければ、Weからはじめてみる手もある。
とにかく、その夢のあるアイデアには「だれが」の主語を添えてあげてみてほしい。そうすると、そして、その名乗りを上がっただれかがいくぶんか覚悟を持てれば、現実味を帯びてくる。
(そもそも、アイデアというのは実現するからこそ、アイデアと呼んであげたい気持ちがある)
実際問題、「あんなこといいな、できたらいいな」を叶えてくれるのは、愛嬌のある水色の丸っこいロボット(のポッケ)じゃなくて、自分でしかないのよな。
主語が抜けた会話の疲弊感ったらないわ、と、ついこないだのMTGを終えたあとに思ったんだ、と、さっき思い出したので、記録!