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七五の国(短編小説)

あれは私がまだ小学校高学年になるかならないかくらいの、夏休みのことだ。
お祭りで使った法被をしまうとかで、私は祖父の蔵に一人で入った。
 
頼まれていたことを済ませて、帰り際のこと。
がしゃがしゃがしゃん――私の肘が当たったかるたの箱が棚から落ち、札が床に散らばった。
(しまった、怒られる!)
蔵にあるものを大事にしている祖父に知られまいと、私はそそくさと札を拾った。
 
プール帰りの濡れた髪から水滴が札に落ちない様に気をつけながら、しゃがんだ膝の上に札を集めると、かしゃかしゃかしゃと涼しい音がした。綺麗な絵がたくさん描かれた札は、裏地が苔の様な色の和紙で、一枚一枚が心地の良い軽さだなとぼんやり思った。
 
「ただいま」
私は、蔵でのことは特に言わずに自分の部屋へ帰り、早々にベッドに潜り込んだ。そして水泳をした日特有の、マットレスに沈み込む様な眠気に身を委ね、そっと目を閉じた。

***

ぽくぽくぽん ぽくぽくぽん――
 
ふと目を覚ますと、遠くから何か、お寺で聞く音の様なものが近づいてくる。
今、何時だろう。夕ご飯も逃してしまったのか。
家はずいぶん静かで、どうやら家族は寝てしまった様だった。
 
とととてとてとん ちんとんしゃん――
 
祭り囃子の様な音が加わり、だんだんと賑やかになる。お祭りは先週終わったはずなのに、なんでだろう。
耳を澄ますと、微かに歌の様なものも聞こえてきた。
 
  皆さんこちら 手のなる方へ
  こと並べ 遊びましょ
  いろはにほへと ちりぬるを
  語呂ごろの天下じゃ うたわにゃ損損
 
賑やかな集団は、家の前まで来てぴたりと歩みを止めた。
どきっとした私が、恐る恐る部屋の窓から道を覗くと、提灯を持った着物の男が、「語呂ごろ衛門えもん」と書いた面をつけてこちらを見上げている。
 
「かるた落としは おまさんかい? 迎えに来たで ほれおいで」
 
突然話しかけられて言葉をなくしていると、二階の部屋の窓まで立派な駕籠かごがふわりと浮き上がって来た。中には立派な座布団が待っている。
気が付けば私は、促されるままに空飛ぶ駕籠に乗り込んでいた。

***

住宅街がみるみるうちに遠くなり、商店街を跨ぎ、学校を越えた。どれほど離れたか分からないが、駕籠から降りたその場所には、時代劇で見る様な街並みが広がっていた。
 
「ようこそここへ 七五しちごの国へ」
語呂衛門と書いた面の男は手を広げて言った。
「ここから先は いつきとななせ こやつら二人 案内あないしますえ」
 
 ひょこりと私の両側に現れたのは浴衣を着たかわいらしい二人組だった。
 
「いろはにほへと」
「ちりぬるを」
「こいつがいつき」
「これななせ」
 
交互に発される言葉は小気味良いラリーの様で、私は愉快な気持ちになった。
どうやら、いつきというのが桜柄、ななせというのが円が重なった幾何学的な柄を着ているのだった。
 
「ついてきて!」
自己紹介を返す間もなく、二人は颯爽と歩き出した。
 
いつきの背中を追いながら私は尋ねた。
「ねえ、ここって一体全体どこなの?」
 
二人は具合が悪そうに顔をしかめ、
「初対面」
「なのに字余り」
「字足らずも」
「礼儀としては」
「ちょっとねえ……」
と、陰口の様な会話をあまり隠す気もない。
 
浴衣の裾をひるがえし、くるりと振り返った二人は言った。
「郷に入っては」
「なんとやら」
「七五国では」
「とりあえず」
「耳にたのしく」
「語呂はよく!」
 
楽しげに話す二人の会話を聞いて私の頭に浮かんだのは、祖父だった。
芝居に凝った祖父は、よくお正月なんかに真似事をして、「知らざあ言って聞かせやしょう」などと言い出すことがある。「よっ弁天小僧!」などと言って喜ぶのは叔父さんくらいで、ほかの親族は一度始まるとなかなか終わらない長台詞に肩をすくめている。私は小さい頃からそれが始まると、急に祖父の雰囲気や話し方が変わるのが面白くて、終わるまで体を揺らして聞いていた。
 
私はようやく、この妙な人たちのことを少し理解した。リズムなのだ。
出会った時から、家の前で聞いた歌も、仮面の人もこの二人も、ずっと七つの音と五つの音で話しているのだった。
 
「かるた落としは、私だよ。わざとじゃなくて……ごめんなさい」
おずおずと、考えながら言葉を発すると、いつきとななせはパッと表情を明るくして、ずんずん先へ歩いていった。
 
「全然平気 怒ってないよ ご縁ができて 探していたの」
ななせが言う。
「だからほら 着いてきて」
いつきが続ける。
 
「まずはこの先 いい匂いだよ」

***

すんとあたりを嗅いでみると、微かに梅の花の香りが立ち込めていた。
足元につやつやと輝く飛び石の先、小さい清らかな川のそのまた先を目で追うと、屋敷があり、縁側に面した部屋の奥には御簾みすがあった。
 
いつきとななせが、声を潜めて教えてくれた。
「ここではね……」
「恋多きひと」
「あのひとね」
「いっつも恋を」
「語ってる」
どうやら、御簾の向こうに人がいるらしいが、その表情までは見えなかった。
 
「梅のの 毎年としのは君に 届く頃 さる春のを 思い出さなむ」
 
その歌は心地よい響きで、私たちのいる庭先にまで届いた。
恋の歌なのだろうということは、私もなんとなく分かった。しかしそれは私たちに向けたものではなく、風に乗って遠くまで届いて欲しいという願いが込められている様だった。
 
「なんだか不思議、どきどきする……ね。意味も、分かるの?」
私が尋ねるまでもなく、ななせといつきは二人で盛り上がっていた。
 
「梅の香りを 君が嗅いだら 私のことを 思い出して、と そういうことだ」
「その通り」
「しかも毎年!」
「お熱いね!」
 
そういうことだったのか。どぎまぎする私をよそに、ななせが御簾の奥へ向けて呼びかけた。
「ねえねえあれを 今日も見せてよ」
 
すると、その女の人は優しく、そして長く、ふうっと庭に向かって息を吹いた。
息吹が届くと、庭の梅の花の一輪一輪が、たちまちきらきらと水気を帯び、あっという間にふわりと枝に積もる雪になってしまった。
 
「いつ見ても 素敵なの」
私に目配せをしたいつきはうっとりとしていた。
 
「なんて不思議なこの世界……もっと見たい……な、すごすぎる!」
興奮して私は二人をせっついた。
 
「今日のところは」
「あの人を」
「そっとしとこう」
「また 秋に」
 
「秋になったら、どうなるの?」
 
「川一面の」
紅葉もみじの葉」
「光る錦に」
「してくれる」
 
それはきっと、とても美しいのだろう。
私は夢見心地で、小さな庭を後にした。
 
「次はこっちだ どんどん行こう」
「夜が明ける その前に」

***

やがて、橋が見えてきた。
さらさらと流れる小川沿いには柳が立ち並んでいたが、よく見るとそれらは一風変わっていた。葉といっしょに紙の短冊の様なものが生えていて、風が吹くとカランコロンと小気味良い音を鳴らして揺れるのだ。
 
「これはいったい……」
立ち止まろうとする私に、二人は早口に説明しながらずんずん進んでいった。
 
「川と柳は」
「合わさると」
「これまたいいこと」
「あるんだよ」
「あなたも何か」
「思ったら」
「あの短冊に」
「したためて」
 
「なるほど納得……」
私は置いていかれない様に必死で、半端なリズムでそう口ずさみながら通り過ぎた。
 
五文字と七文字を組み合わせて、世の中のことをおもしろく表す「川柳せんりゅう」というものがあると、国語の授業で知ったのはその次の年だった。

***

二人を追って早足でたどり着いた先は、賑わう宿場町の大通りだった。大小様々な店が立ち並び、活気のある様子だ。
 
「さあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい」
威勢よく声を張って見物人を集めていた若い男が、私たちに気がついて手招きした。
 
ちまた一流大店おおだなで、威張えばった店主捕まえて、下さい頂戴で頂きますと、五千が六千、七千、八千、一万はする品物だが今日は言わない!そんなこと」
すっと息を吸うと、
「いいかい?はい、並んだ数字がまず一つ。もののはじまりが一ならば、国のはじまりが大和の国、島のはじまりが淡路島、泥棒のはじまりが石川五右衛門なら、べっぴんのはじまりがこのおねいさん!」
 
立板に水とはまさにこのこと、見ている客を巻き込みながらどんどんまくしたてていく。
何を言っているかよくわからないけれど、とにかく気持ち良くて、この勢いに乗ってこの人が売っている何かしらを買ってしまいたいと思わせる様な威勢の良さだった。七五調でなくても、語呂の良さがピカイチということなのだろう。
いったい何を売っているのかと覗き込めば、手のひらくらいの大きさの黒々とした文字が、一文字ずつゴザに並べられている。
 
「大したもんだよ小言の字余り、見上げたもんだよ天下のお裁き」
ぱんぱんと手を打つと、立て続けに
「古今東西、老若男女の一字並べてご笑覧、今日は安いよ持ってきな!」
とまくしたてた。
 
どうやら、文字を一字単位で売っているらしい。
 
「ここへ急いで」
「来たのはね」
「この名調子」
「目指したの」
ななせといつきは、間に合って一安心している様。
なるほどこの文字売りは、ちょっとした見ものであった。
 
男の後ろには大きな墨絵の屏風があった。その屏風の絵は、紙のなかで動き回っていた。よく見ると、人と人の間を、文字を持った文字売りが行ったり来たりしている。
つまりこの仕事は、この七五調の国で余った字を買い取ったり、反対に字の足りない人に売ったりしているということの様だった。
 
さて、先ほどべっぴんだと言われていたお姉さん。見るとたしかに、目元の涼やかな美しい人だった。
聴衆の視線を知ってか知らずか、物憂げに漏らす。
 
「惚れた腫れたの 心づもりは 三十一文字みそひともじでも 語られず」
 
伏せた睫毛の奥からは訴える様な眼差し。目線の先は、文字売りだ。
 
罪な男め――何やらドラマを勝手に妄想した客たちは勝手にぽうっとなり、ひとりまたひとりと
「その『な』を一丁、もらおうか。好きな字なんだ、せがれがね」
「あたしはあっちの『む』をちょうだい! なんてったって便利だからね」
とお買い上げだ。
 
「あのふたり、どういう仲か気になるな……」
私がつぶやくと、いつきとななせは
「みんなそう」
「もんもんとして」
「見守るの」
 
「文字売り相手の」
「この恋の……」
「こころ伝える」
「文字はなし」
感情たっぷりに語ってみせた。
 
くるりと二人、私を見ると、
「これと合わせて」
「見ものでしょ」
いたずらっ子の様に顔を見合わせて笑った。

***

うっすらと空が白み始めたころ、二人は遠くを見上げて呟いた。
「じきに夜明けだ」
「さよならだ」
 
「そんなに急に? めまぐるしいよ」
訳も分からず誘われてついてきたこの七五調の国、時間のルールすら私の知るものとは違うみたいだ。
 
「では少しだけ」
「少しだよ」
「お茶くらいなら」
「いいかもね」
「帰り道だし」
「おいでませ」

***

最後に連れられたのは、どうやらいつきとななせの住まう屋敷の様だった。
風情を愉しむ間もなく、ころりと足元に、ボールの様なものがいくつか転がってきた。見上げると、縁側で猫が数匹、まったりとまりで遊んでいるのだ。
 
「よく見てみてね」
 
そう言われて持ち上げた鞠には、金糸で模様の繊細な刺繍が施されていた。しかし私の知る鞠とは違い、本体の部分の輪郭が、なんだかはっきりとしない、白く輝く球体であった。
「光ってる。太陽か?いや、お月様……」
 
「良い答えだね 教えてあげて」
ななせが言うと、いつきは
朧月おぼろづき
私の持っていた輝く鞠を指して言った。
 
青蛙あおがえる
「流れ星」
「寒椿」
鞠の中の可愛らしい鈴の音をコロンと鳴らしながら、いつきは一つずつ名を明かしていく。
 
「つまりはね」
「うちの猫たち 遊び道具は 季節の言葉の」
「鞠なんだ」
 
朧月は春、青蛙は夏、流れ星は秋、寒椿は冬の言葉なのだと、いつきは教えてくれた。
人間だけでなく猫までもが言葉で遊んでいるとは――私は祖父の飼っている呑気な柴犬のことを思い出しながら、流石に驚いた。
 
しばらく、にゃあにゃあと戯れる猫らを眺め、出されたお茶を飲んで過ごした。
(あれ、にゃあにゃあと調子よく鳴いているのも、よく聞くと「七五調」なのか……)
そんなことを考えていると、いよいよ空が明るくなってきた。
 
「そろそろだ」
「いや いよいよだ」
「お帰りは」
「いろは坂から」
「急いでね」
 
「あっという間でさみしいけれど、案内のほど、本当に、感謝してるよ。ありがとう」
すらすらと言葉が出てきた。
ひと息で言い切ると、私は示された方へ駆けた。
 
「いろは坂」というのは、ゆるやかな苔色の階段にも見えるもので、よく見るとそれは畳くらいの大きさのかるたの札で出来ていた。
和紙が少しだけ反ったその軽やかな札に足をかけ、ひとたび降りていくとあっという間。
梅を雪に変える乙女や、文字売りの商人には、挨拶をする時間もなかった。
あれよあれよという間に、かるたのいろは坂は朝焼けを越え、気付けば自室の窓へ踏み込んでいたのだった。
 
夢か現か、寝ぼけていたか。
 
翌日に観に行った蔵のかるたは、棚に戻したときと変わらぬ佇まいでそこにあった。
私がその夏、祖父に頼んで七五調の格好良い芝居を観に行ったことは、また別の話である。

終 

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