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ハッピーライフ
序
「あっ、軽い!」
体が、軽い……!
「信じられない……本当なんだ!」
今日から、私は、高校生。
あの頃の私なんだ!
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一話
「やり直したくないかい?」
それは、じっとりと暗い午後の日のことだった。
私はいつものように布団の上、部屋の壁にもたれ、うなだれていた。雨が降っているのに、うんざりするほど静かだった。
「ねえ、君。やり直したくないかい?」
彼は、私に尋ねた。
彼——と、いうものの、知らない人だった。
唐突に、私の部屋に現れた。どこから来たのかも、わからない……そもそも、人であるかさえ、わからなかった。
ふわふわと地面から浮いていて、男にも、女にも、少年にも、老人にも見えた。私にはかろうじて、少年の姿に判別したので、それを、彼と呼ぶことにした。
幻か——お迎えか——どちらにしても、驚かなかった。
「かわいそうに、驚く元気もないね」
ひどくやさしげで、甘い声が私を撫ぜる。
「こんなにぼろぼろで、痛くないところを探すのも、つらいだろう?」
私の顔を覗き込んだ。驚くほど無遠慮な距離の縮め方だ。白い——手をさしこめば、どこまでも抜けていきそうな肌をしている。不思議な、不思議な色の目は、赤にも緑に見えた。
おそろしく端正な顔なのに、とびきり美しくも、醜くも見えた。
この時、私は、久しぶりに脳が動いているのを感じた。彼の顔は、異様な引力があった。
けれど、反動が訪れる。
めまいがして、私は目をつむった。
みだれる呼吸、目を閉じていても回る視界——ひどい動悸に、不規則に体が痙攣する。
「かわいそうに、どうしてこんな人生になってしまったんだろう?」
彼の声は、脳をつかむように入り込んでくる。異様だった。
——いつから?
ああ、いつから、こんなことになってしまったのだろう?
答えは決まっていた——あの時から。
私は、高校生のころ、すべてを間違ってしまったのだ。
「ねえ、戻りたくないかい?」
ぐらぐら揺れる脳の中をするする縫って、彼の声は、私に尋ねる。
戻る——何を?
「あの頃に、戻りたくないかい?」
私の心臓が、一際大きく鳴った。
「僕が、君をあの日の前に戻してあげる」
何を、馬鹿なことを。そう思うのに、不思議と心は冷えなかった。
「魂は今のまま……僕の力なら、それができる」
彼の言葉は、私の脳に確信を与えた。——彼はできるのだと。
「そして、君はやり直すんだよ。こんな目にあわないように」
!
心臓が鳴る。
一拍。
二拍。
「ねえ? 戻りたくないかい? 言ってごらん」
「も、ど、り、た、い」
彼はにっこりと笑った。
「よかった。契約、成立だね」
二話
そうして、私は戻ってきたのだ。
にわかに信じられない。
でも、布団の柄も、部屋のにおいも、何もかも、さっきまでと違う。日差しが明るく、目を心地よく刺激する。
雀の鳴く声が驚くほど、クリアーに響いた。
「やった……! やった、やったやった……!」
私は大きく伸びをした。腕が天井に届きそうなほど、よく体がのびた。
「やあ」
「さっそく、満喫しているね」
「!」
壁から、ふわりと彼が抜け出てきた。私はそれに驚く。——ああ、何と、健康に心臓が鳴ることだろう!
「ありがとう!」
「いいえ。喜ぶのは、まだ早いよ」
「あっ」
「これから、君はやり直すんだから」
その通りだ。身が引き締まる心地になる。
真剣な気持ちに変わったのを見て、彼はふと笑った。
「大丈夫。君ならできるよ」
「ありがとう!」
親しみのある笑みを向けられ、私はとても心強くなる。
「じゃあ、たのしい生を。」
「うん!」
彼は、ふっと、壁の向こうに消え——そうになる瞬間、私の方を振り返った。
「忘れてた」
「君の魂は、あのころのままだよ。そこはわかってるね」
「うん!」
だからこそ、私はやり直せるのだ。ちゃんと、わかっている。私は彼に頷いた。
「それならよかった。じゃあ、またね」
彼は今度こそ消えた。
私は、壁に向かって、笑みを向ける。何もなくても、嬉しい気持ちがわいてくる。よどんだ気持ちはどこにもなかった。
不思議だ——でも、これが今の私なんだ。
私は制服に着替えて、部屋の外に出た。
私は新しい気持ちなのに、制服はやわらかに湿っているのが、おかしかった。
三話
「遅い」
リビングでは、両親と兄が朝食をとっていた。三人ともぴりぴりとしていて、私は瞬間的に、身を縮める。
そこで、思い直す。
(そうだ、ここで怯えていちゃ駄目なんだ)
「ごめんなさい」
すたすたと、私は席に着いた。並べられた朝食を食べる。
昔なら、ひたすら気詰まりだった。けれど今は、おいしくご飯が食べられる感動でいっぱいだった。
母が、コップをテーブルに叩きつけて、席を立つ。椅子をテーブルに向けて投げる様に入れた。
続いて、兄が席を立つ。食器は置きっぱなしだ。
「今日も、ちゃんと勉強進めるんだぞ」
父が兄の背に、言葉を投げる。兄の体から陰うつな怒りが発された。
何も言わずに、部屋に入っていった。
「文則!」
キッチンから、母が抑えた声で怒鳴る。
「今日はあの子、頭が痛いのよ! いちいち過干渉に……」
「そんなんで、受験は待ってくれないだろう!」
「そうやって追いつめてばかり!」
私を間に挟んで、両親は言い合った。
(……ああ、そうだったなあ)
私はひたすら、ご飯を食べすすめる。
言い合いの途中で、父は怒気にまみれたため息をついて、玄関に向かった。
玄関のドアが乱暴に閉まる音がする。
そこで、母がキッチン台を叩いた。
「なにしてるの! はやく食べなさい!」
私は食器を持って、立ち上がった。
この言葉がわかっていたから、私は食べ続けていたのだ。以前なら、萎縮しきりで、二人の言い争いを聞いていた。
「ごちそうさまでした」
「たまには自分で洗ったらどうなの! 何もしないんだから!」
母は、私から食器をひったくり、洗い出した。
心臓が冷えないでもない。というより、やっぱり、体はすくんだ。
でも、もう私は昔の私じゃない。
「ごめんなさい」
私はびくびくせず、謝った。びくびくすると、もっと苛つかれるから。
「何、その言い方?」
あれ、気に障ったらしい。そっか、どっちでも、これは怒られてたんだ。
「さっきからえらそうに。何か文句あるの?」
「ないです」
「ずっと不機嫌な顔して! お母さんは八つ当たりしていい道具じゃないっ!」
ドン!
「!」
母が怒ると同時に、向こうからドアを叩く音がした。兄だ。きっとうるさかったんだろう。
母は、ばつの悪い顔を向こうに向けて、私に
「はやく行きなさい!」
と言った。
私は、鞄を持って玄関へ向かった。
「行ってきまーす」
空はどこまでも、青かった。
この頃——兄は浪人していて、ふさぎがちだった。両親ともに、世間体を気にするたちで、兄にそれは過干渉だった。
二人は、兄の一挙手一投足に一喜一憂した。
父は、兄のことを管理したがり、母は、兄のことを甘やかそうとした。当然ぶつかり合い、喧嘩し合う。それで、兄はいっそうふさぎこみ、ひたすらに悪循環だった。
みんなみんな、ままならない気持ちを抱えていて、そのはけ口を求めていた。
そのはけ口が、私だった。
今ならわかる。
でも、あの頃の私は何もかも気付かなかったし、わからなかった。
何か、おかしいくらい……みんなが不機嫌であることはわかっていた。その原因が、兄の浪人であることもわかっていた。
けれどそれと、私が皆のストレスのはけ口にされることは、なんの関係もないことがわからなかった。
だから、あの頃私は——とにかくとにかく、自分が悪いのだとばかり思っていた。
私と親は別の人間だと——自分を親の一部の様に感じていたから、攻撃されると、本当にこたえた。
それに、私は実際、兄と比べて出来の悪い子どもだったし、絵にかいた様ないい子でもなかった。だからこそ、自分の事をかばえなかった。
「でも、もう私は、あの頃の私じゃない! いちいち傷ついたりしない!」
私は、坂道を駆け降りる。たったったっ、リズムは心地よく、体はばねのようだった。呼吸も全くみだれない。
私は、いたく彼に感謝していた。
私が戻ったのは、私の「体だけ」だ。だから、精神はかつてのように、過敏ではなかった。
むろん、楽しさや、痛みは、ずっと鋭敏だ。意味のわからないむずむず苛々する感覚が、私の体を覆ってもいる。
けれど、私はそれを理解している。だから、あの頃よりずっとこなせた。
「これが、魂はそのままっていうことなのかな」
私は改札を軽やかに通り過ぎた。
四話
「やめる?」
顧問の杉島は、うろんな顔で、私を見つめた。
「はい、お世話になりました!」
「ちょっ……と、待ちなさい。」
舌打ちに似た、「ちょっと」だ。それすら懐かしい。杉島は、手近な椅子を引いて、私に座らせた。
「お前、責任を持ちなさい。これから、試合もたくさんあるのに……」
「はい」
「ほいほいやめる? チャラチャラ……そんな簡単なものじゃない」
「すみません」
「やり始めたことを投げてるようでは、社会でやってけんぞ」
私は、膝の上でぐっと拳を作った。
——責任、社会。
この言葉が、あの頃は無性に怖かった。でも、今は——
「すみません、でも決めたんです。勉強もしながら、この部活の密度についていけません」
「可能性を狭めてどうする!」
「とにかく決めました! 私に、文武両道は無理です。すみません」
「……そんな簡単にあきらめ癖して、生きていけると思うな」
小さく、悲し気に杉島は呟いて、「退部届、持ってこい」と言った。
「失礼しました」
職員室を出て、私はガッツポーズをした。
「やった!」
ちゃんと言えた。
泣きたいくらい、ほっとしていた。
何か自分を変えたくて、私はバレー部に入っていた。
わりと力の入った部活だったから、未経験者は求めていなかった。私は未経験で、運動も苦手だった。
体育会系のノリにもなじめず、下手なことに引け目を感じて、ずっとへらへらしていた。
練習もハードで、勉強にもついていけなくなっていた。
遅れを取り戻そうと、勉強すると、部活でへまをして——悪循環だった。
一年ちょっと頑張ったけど、いつもお腹を壊していた。
やめようとしたら、いつも杉島に説教をされて、退部できなかった。
「でも、できた。ちゃんと言えばよかったんだ」
残るはひとつ。
そして、これが一番、難関だった。
五話
「りいちゃん、部活やめたって、ほんと?」
「うん」
「何で?」
「向いてなかったし、しんどかったから」
「確かに、全然りいちゃん浮いてたもんねえ」
キャハハ。
真帆はスマホをいじりながら笑った。
「あっならさあ、りいちゃん放課後ヒマになっちゃうね?」
「何で?」
聞いたものの、予想は出来ていた。
「は? まじで言ってんの」
真帆は不機嫌になった。
「うん」
「あーそっか。ゲームでもしてるんだ? りいちゃんオタクだもんね」
「いや、ゲームもしない。あのさ、真帆ちゃん」
「何?」
すいすい、真帆の指はスマホに夢中だ。
「私、部活やめるじゃん。真帆ちゃんは部活入ってるじゃん。だから、これから一緒には帰れないと思う。ごめん」
「……は?」
真帆は、顔を上げた。不愉快、そんな顔だった。
「何言ってんの?」
「ごめん。でも、さすがに六時までは長いから」
「ゲームでもしてればいいじゃん。それか勉強とかさあ」
「ごめん。あと、LINEとか、電話もそんなにもう出来ないと思う」
「は?」
「勉強、もっと頑張りたいの」
私は真帆の目を見て頼んだ。
「は? 何それ」
真帆は、スマホを握りしめた。
「りいちゃん、さっきから自分の都合ばっかさあ」
「それはごめん」
「てゆーか何? なんか変じゃない? いきなり何キャラ? 何様なの?」
「ごめん」
「うるっさいなあ」
真帆は向かいの私の椅子を蹴った。嘘みたいに音が響いた。
真帆は冷たい目で私を見ていた。
「私のことなんてどうでもいいんじゃん」
「どうでもよくないよ」
「いや、いいよ嘘つかなくて。てゆーかさ、ほんと、りいちゃんそういうとこあるよね。人の気持ちわかんないってゆーか、空気よめなすぎってゆーかさ……そんなんだから、友達出来ないし、皆に嫌われてるんだよ?」
「私だから、そーゆーの許してあげてるけど……ほんと、気を付けた方がいいよ?」
「そんな風に、言われたくない」
「は?」
真帆の顔が紅潮した。この流れで、私が言い返したことはなかった。
「まじないわ。空気読めなくて、人のこと、苛々させて……その上、えらそうになったら、本当に、いいとこなしだから」
「もういいよ。どっかいけば」
真帆はまた、スマホをいじり出した。話しかけるなオーラが出ている。
こうなると、もうどうにもならない。
「真帆」
無視だった。
わかっていた。私がどんなに慌てて、謝っても、ずっと、気が済むまで——あるいは忘れるまで、真帆はそうしていた。
「ごめん」
私は席を立った。
そして、自分の席に戻った。
真帆に、
「悪いとこ直すから、嫌わないで」
と、もう言わない。
友達、ではあったと思う。
友達ができない私に、声をかけてくれた真帆のこと、ずっと感謝してた。
けれど、夜通しLINEしたり、電話したりするのは、正直苦痛だった。よくわからない理由で怒られて、無視されて、人格否定されるのもつらかった。
真帆以外に友達はいなかった。これから、どうしたらいいか、わからない。
でも、そんな気持ちしかわかない友情なんだ。
だから……これでいいんだ。
私は、廊下に出た。
風が、さあっと吹き抜けて、気持ちよかった。
六話
自信がなかった私は、誰かに必要とされる自分にあこがれた。
だから、高校で、毛色の違う部活に入って、友達を作ろうと、必死に努力した。
でも、それは、自分のコンプレックスをもっと強めただけの結果に終わった。
余計に卑屈に必死になって……私は、体を壊した。
兄が、念願の大学に合格して、家が少し落ち着いた頃だった。
まさか、寝ないくらいで、ここまで壊れるとは思わなかった。
死のうにも、体が動かない。窓の外まで、這うこともできない……
そんな生活が続いた。
働かない頭で、ずっと考えていた。
——どうしてこんなことになってしまったんだろう?
親は、思ったより、私を愛してくれていた。
壊れた私を、絶対に捨てると思っていたのに、家においてくれた。
全部、私が悪いのか。
そう思えている内は、まだよかった。
私が、悪いと思えなくなってきたときから、もっと苦しくなった。
兄は、ふさいでいたことも忘れて、楽しそうだった。
真帆は、クラスが変わるなり、連絡が途絶えた。
私だけ……取り残された。
私が悪いんだ。
でも……でも……
でも……でも……
「でも、もう私は違うんだ」
思いつく限りの、原因は、全部断ち切った。
これで、私にはもう、ならないんだ。
空を、こんなに高く美しく感じたのは、いつぶりだろう。
私にも、そんな時期があったんだ。
七話
それから……私は、あの頃とは、別の道を歩み出した。
もう何も知らない道だ。でも、だからこそ、健康にはいっそう気をつかった。
自分の許容量をちゃんとはかって、その中で一生懸命やった。
不思議な事で、そうすると、信頼されだした。友達もできなくていいやと思っていたら、友達ができ始めた。
ちゃんと、気持ちを伝える様になったからかもしれない。
「間に合え!」
願いむなしく、信号に引っかかった。
「ああ……遅刻かな……」
今、私は大学の二年生になる。
サークル活動に、学業に、バイトに……忙しく、充実した日々を送っている。もう、自分の許容量を、わかっているから、色んな事に挑戦できた。
風が吹く。初夏の風……戻ってから、もうすぐ三年になるんだ。
歩道は、信号待ちの、学生たちでいっぱいだった。
相手を思いやることは、怯える事じゃなかったんだと、最近思う。
あの頃、本当は、私はずっとずっと、怒っていた。
家族に、部活に、真帆に……自分を優遇してくれない、何かに、いつも怒っていた。
(行動もしなかったのに……ううん)
(あの時、私は、私なりに一生懸命だったよね)
「戻って」、頑張り出してから、あの頃の自分が恥ずかしくて仕方ない時もあった。
けれど、今は——あの時の私を、抱きしめてあげられる。
戻ってよかった。本当に……
私も、誰かを助けてあげられる人になりたい。
だから、絶対、将来は——
激しい走行音とつんざくような、ブレーキの音が、あたりに響いた。
八話
「お疲れ様」
煙、人の悲鳴、サイレン——惨状と化した歩道を見下ろして、僕は言った。
ふわり、ふわりと浮かんできた、一つの丸い光をそっとキャッチする。
慰撫する様に形を確かめると、口を開いた。
一息に光を飲み込むと、上唇を舌先で舐める。
「ごちそうさま」
この味わい。さすが、三年ものの魂だ。
「素敵な余生だったみたいで、僕も嬉しいよ」
僕たちは、未練ある魂を、戻してあげることができる。
「けれど、言ったんだけどな。『魂はもとのままだ』って」
やっぱり、わかってなかったみたいだった。そんな味がする。
体の年齢は戻っても、魂の年齢は変わらない。
戻る前の寿命が三年なら、体が「戻った」ところで、三年で死ぬのだ。
「とっても頑張ってくれてたから、こんな結末しかなかったけど……」
僕はくるり、旋回すると、天に向かった。
次の食事が待ってる。
「おいしかったよ。君の魂」
——空は高く高く、澄んでいた。人の影は遠くかき消えるほどに。
fin.