「天使」

湖の岸辺で、鹿が水を飲んでいる。
その瞳もまた、極めて水々しい。
それらはまるで、とろりと浮遊するゼリーのようで、そこにある湖と同じように黒黒く、また透き通ってもいた。

この自分というものがどこから来たのか、2人はついぞ知る由もなかった。「身軽」すぎるという事実が、二人をより一層強く引き合わせたのだろうか。
見つめ合い、互いの瞳に自らを映しあうことで、眼前に添えられた「生」にありつこうとするその欲張り。その欲求こそが見つめ合う事の意味であり、価値なのだ、と2人は悟った。
そして、さらにその認識を通して、今この「意識」がある、ということを改めて思い知った。
同時に「なんという羞恥だろう」と、2人は思う。どこからともなく働きだす知性の陰湿さが…。

「ごらん。あれは鹿だよ」と美鶴が言う。
その一言は、舞草の心に微細な波紋すら拡げることもなく、宙に浮いている。水を飲む眼前の鹿によって、この湖の岸辺にだけ、穏やかな波紋が届けられた。
よほど渇いているのか。
水墨画における余白と同じ効果を、この鹿が生んでいる。それは、在るべくしてそこに在る空虚なのだ。
弱い波紋の連なりが起こっては消え、また馴染んでゆく。
湖面に映る森は捩れ、砕かれ、また新しい森に生まれ変わる。

そんな光景の中で、舞草がやっと美鶴に応答する。
舞草は、このあと、美鶴と2人で行うであろう行為を予感しながらも、その発想を素早く叩き伏せた。予感を成就させるには、まだ早すぎるのだ。
「美鶴、この手を引いてくださらない?」
その発想を得た時、舞草はとても清々しい気持ちになった。
一個の生命に与えらえた時間が、このようにして、生きるに値する時間へと昇華していく。
「なら、こちらに手をちょうだいよ」美鶴が鹿と、その後ろに広がる森を眺めながら、舞草の手を求めた。氷柱のように冷えた手だ。
その細い手は、まるで舞草の一部とは違う独立した生物にも感じられたが、不潔な印象は微塵も感じられない。たとえ、そこに流れる紫の血筋が異界の者を思わせたとしても。

その手を見つめながら、美鶴はこう思った。
「そうか、これが意味というものか。あの崇高な…意味」
一方、舞草は、美鶴の方を見ずとも、美鶴の顔に現れた微笑みが手に取るように感じられた。舞草の心いっぱいにも、その微笑みが寄生し、充満する。
だから、舞草は口を大きく開けて、一度だけ「ハッ」と笑ってみせた。それは、何かの干渉により弾ける性質を持った実を真似たものだった。あれはいつどこの国で見たものだろうと、記憶が蘇った。

「美鶴って意地悪ね。気づいていても、何も言ってくださらないのだわ」
2人は、ヒトの視点が白紙の黒い一滴のシミに反応するように、反射的にその歩みを進めていた。
鹿は尚、水を飲み、波紋を届け続けている。
「そろそろ私、喜んでもいいかしら?」舞草が楽しそうに言った。「だってこんなに幸福なことって無いのだわ」
「君もそうなのかい」美鶴が言う。そう応える準備をしていた。
「ええ、もう良いのね?」
「ああ、良いさ。その時が来ることを思っていた。まるで昔見た夢のように」
どこからが夢?

2人は岸を静かに歩き、鹿の方へ歩いて行く。
水際では、大小様々な魚がせわしく泳いでいる。2人の後を追うようだ。
「私もう待ちきれないわ。まるで自分の誕生を見るようよ」
そして舞草は、岸辺の花に触れるために放していた手を、また美鶴に託した。
美鶴もその手をしっかり受け取り、繋いだ。
そうして2人は、やっと水を飲み終わった鹿の後ろに、並んで静かに立った。
一呼吸置き、美鶴はそのまま右足を、舞草は左足をふわりと上げ、これといった合図も無く、しなやかな筋肉で守られた鹿の尻を押すようにポウンと蹴り、その渇きを潤している鹿を湖に蹴り落とした。

鹿の体重に見合っただけの水音が鳴り、激しく波紋が広がり、水の柱がそびえ立つ。
水中の魚たちは慌てて方々に散らばり、鹿はより深く水底へと落ちて行きながら、のたうつようだった。
美鶴と舞草は、卑猥なものでも見るように顔を歪ませ、その様子を眺める。ただその姿が見えなくなってしまうまで、じっと待った。それはたぶん、礼儀なのだ。

次第に透明な湖は茶色く濁り、反面、鹿の動きは静かに。
やがて美鶴と舞草は、どちらからということもなく口づけを交わす。
軽妙に花咲くような口づけは、湖に向かいただ並んで立ち、首をひねり互いを見やり、重ねるだけのものだった。ファンシィなキャラクタが戯れる、そんなキスだった。
それは刹那に終わり、その時、見知らぬ風が吹く。
その口づけには、互いの心を乱すような妖艶なもの、心を豪鬼に奪い去るようなものの一切も、無かった。
この時間をどのように完全なものにするか、美鶴と舞草には自明のことだった。

「今確かなことが一つだけある。たった1つのことだけに僕たちは徹したよ」
「当てて見せるわ。私」
「うん」
「そうね・・・言いにくいことだけれど」
舞草が言い、一呼吸。2人は映し合い、声を揃える。

「キス」

湖は鮮血に染まった。
魚たちが、鹿が沈む場所へと、いそいそと泳いだからだ。

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10分もかからず読める。つまり、なんか読書した気になれます。「気になれる」ということが大切。この世の全ては「錯覚」ですからね。

最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…

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