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芦田愛菜さんの言っていることが、謎
「自分に人生の最終決定権があると思ってしまうと、うまくいかない時に自分を責めてしまう。だから、あらかじめ結果は決まっていて自分はそこへ向かう方法を選んでいるだけ。そう思うことで、納得ができる。」ということらしい。
本当にこの手の格言めいた言葉に弱いな、人は。
格言というのは、「深そうな響き」を持っていなくてはならず、遠回しな表現だったり、ちょっとした比喩表現が使われていた方がスマートに聞こえる。
この辺りは詩的なセンスというか、うまくいけば「言い得て妙」と思わせることができる。僕には座右の銘とか好きな格言は無い。
今回の芦田女史の言葉も、ちょっと「なるほど」とは思えない。もちろん、本人も別に「すごいでしょ、私。」と思っているわけではないと思うので、取り上げるメディアの問題なのだろうなと気の毒である。こういうのを見ていると、絶対に有名人にはなりたくないな、と再認識させられる。
ところで、どうして人はわざわざ物事を複雑にして、そこから答えを出そうとするのだろう。
難しく考えなくてはならない、と決まっているかのごとく、非常に難解な表現でそれぞれの哲学が語られる。哲学というのは、難しく考えることではない。でも、あまり単純すぎると哲学ではない、という思想が世の中にはあるのかも知れない。
釈迦の言葉が広く語られないのは、単純すぎるからなのかも。中国やヨーロッパの哲学者がよく取り上げられるのは、その詩的な表現からか。詩的というか、いちいち難しいというか。
それに比べると、ドイツのヘッセなんかは非常に禅的でシンプルだ。「シッダールタ」を書くだけある。
「自分の人生の最終決定権は、自分には無い。」というのは、言わんとしていることはわかるが、「なるようになる」的な考え方に近い気もする。
これは、あまり物事を考えたくない、直視したくない人に見られる思考で、だからこそ多くの人に受け入れられている。
確かに、考えても仕方がない状況はあるし、どれだけ計画的に生きていてもイレギュラは起こる。でも、「だから考えても仕方がない」と思うから、余計に悪くなるのでは?と思うのだが、違うだろうか。
もちろん、それを悪いと言っているのではない。ただ、見ていて「しんどそうだな」と感じる。何せ、その時はクリアしたように見えても、また同じ問題が必ず起きる。
そもそも、最終的な決定権というのがよくわからない。最終とは、何のことを言っているのか。死についてか、あるいは夢が叶う瞬間のことか。
このように、なんとなく良いことを言っているようだが、よくよく考えてみると「何も言ってない」みたいな言葉は本当に多い。
僕の感覚だと、「最終決定権」は「生活の中で常にある」とイメージしたが、どうだろう。
人はいつも選択に迫られているし、その選択によって自分の在り方が変化する。だから、いつも常に最終だろう。かといって、いつも常に始まりだ。でなければ、生きている意味が無い。
それを決定する権利は自分に無い、と考えることで「自分を責めないで済む」という感覚は、僕にはよくわからない。
そういう人の人生は「自分を過剰に卑下する」ことが問題になっていて、それを無理になだめるために主体的に「考えること」を捨ててしまったら、まるで自分が低レベルな人間であることを認めているみたいだ。謙虚であることは大切だが、そこまでへりくだる必要もないように思う。
だって、自分の人生だ。誰にお伺いを立てているのだろう?
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