見出し画像

車の買取査定に付き添った

近所の方が車を買い替えるということで、今ある自動車を買取業者に査定したいという話を聞いた。手伝ってくれ、と言うのである。
その方はもう60代を越えているので、僕なんかよりも「実になる知識」をたくさん持っているはずで、僕などの力添えは要らないと思うが。そう言っても、いることに意味がある、とおっしゃるので仕方がない。
厚かましい、とはこのことだろう(冗談です、たぶん)。

昭和は60年代まで続いたが、この辺りに産まれている人は、テクノロジーにも、趣味的な工作知識にも明るい。今で言う「DIY」なんて、この辺りの世代の人からすると、「何を今更?そのレベルでやってんの?」と感じるほどの内容だろう。
ただ、昭和50年代60年代と後半になるほど、趣味的な工作知識に明るい人はかなり減るとは思う。また、今50代60代の人でも、簡単な工作ができなかったり、車やバイクのような乗り物がどういう仕組みで動いているのか、工学的な知識がほとんど無い人もたくさんいる。
しかし、僕より上の立場の偉い60代の先生方は、それはもう凄い。電子工学や機械工学、それらの発展と共に育った大人たちである。その際たるものが「コンピュータ」で、これらすべての黎明期をリアルタイムで追いながら育っているのだ。
この世代の理系学生は、「ゲーム」なんて自分で作っていたし、「プログラミング」という魔法をまるでドライバのように平気で扱う。イメージが湧かないかも知れないが、そういう時代があったのだ。むしろ、現代に生きる僕たちの方が今更「プログラミング」だとか「コンピュータ言語」などと言って、めちゃくちゃ時代遅れだと言えるだろう。
僕たちの時代で例えると、たぶんそれほど衝撃的な出来事は無い。おそらく、僕たちはこの先、テクノロジーの新しい衝撃を受けることは無いだろう。もう発展のしようが無いからだ。テクノロジーはこれから、予想される通りに緩やかなマイナチェンジを重ねていくだけだ。
つまり、彼らは僕たちよりも「楽しいこと」をたくさん知っている。まだゲームなんかやってるの?くらいに思っているかも知れない。

そんな彼らの知識、経験、実際に振るうことができる技術は、おそらく今生きている人間の中で、最も多く、高く、素晴らしいものだろう。一般にはイメージできないかも知れないが、学問の世界にいるあの世代の大人は、完全無欠に見える。
「冴えないおっさん」なんて、一人も見たことが無い。
確かに、年齢で人は測れないし、そこに明確な序列は無いと思う。しかし、ある種の人々に限って言えば、僕たちにできて彼らにできないことは無いように見えるし、その思考の柔軟さは僕たちの先にあるものだ。「ニュートン」はめちゃくちゃ年上だが、順当に凄い。それと同じだろう。
僕の活動を通して、少しでも僕のことを知っている人は、「こいつは好き勝手振る舞って、年齢による序列なんて気にもしていないだろう」と思われているかも知れないが、そんなことはない。
先にも書いたような理由から、僕は昭和の前期から中期あたりに産まれた人たちには、無礼な物言いや態度はしないし、「学ぶところ多し」と考えている。もちろん、年齢に拘らず誰にでも敬語で話しているし、失礼な態度はしないが、ある世代の限られた人物に対しては特別な意識をしているということだ。

一方で、どの世代も関係なく「一般的な人々」はいる。僕のご近所にもたくさんいて、彼らは自分よりも遥かに若い僕の方に、知識や情報を仕入れに来る。正直、僕は彼らに用は無いが、一応頼まれごとは聞けるだけ聞くことにしている。これも社会勉強かな、といったところだ。

ここから先は

636字
10分もかからず読める。つまり、なんか読書した気になれます。「気になれる」ということが大切。この世の全ては「錯覚」ですからね。

最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?