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3・11ということで、反原発運動の話から適当に。
震災は毎年のようにメディアに取り上げられる。
でも、不思議なことに、「阪神淡路大震災」がテーマの番組はあまり観たことがない。
「関東に居るから知らないのか」と思い直したが、「東北大震災」の方は全国的に取り上げられているようだ。
今思うと、大阪に住んでいた時でさえも、「阪神淡路大震災」の特集なんてほとんど観たことが無い気がする(僕が忙しかっただけかも)。やはり、東北大震災は原発や津波の問題があって、より悲惨だったということか。
確かに、津波被害や原発事故のことを考えると、阪神淡路大震災の方がいくらかマシに見えるのかも知れない。
単に、阪神淡路大震災の方が古いから「風化」してしまっただけ、という可能性もある。そもそも東北大震災だって、風化しているのだ。
こういうことを多くの人がいる前で話すと、顰蹙を買う。
一度、学園祭で無料聴講できる一般向けの原子力関係の講義に参加したとき、面倒なことになった。
東海原発の反原発デモに巻き込まれた時の話をしたのだが、どうも反応が良くなかった。
「ああいう下品なデモはやめましょう」みたいな話をしたのだが、受け手にはその意図が伝わらなかったようだ。
「反原発」は「思想」だ。その思想が正しかろうが悪かろうが、思想を持っている人はとにかく大勢の人に伝えたがる。
大勢の人に伝える上で、また別の思想を持っている人間と出会うこともあるわけで、そこで議論になる。
その際、こういう思想が強い人たちに限って、「感情的」になる。
眺めていると、それは子供の喧嘩と全く同じで、知識も経験もある大人には見えない。
相手の思想がいかに「歪んでいる」か、またはどうすればそれを「修正」することができるか、そのためにあらゆる言葉を駆使する。自分たちだけが正しくて、他は全て間違っているみたいな態度だ。お互いにそうだから、話は平行線を辿るばかりである。
それだけならまだ良いが、互いに傷つくだろうし、その怒りからさらに客観性を失い、「自分たちは間違っていない」とより深く信じることになる。そうやって「敵対」の構図は、揺るがぬものになっていく。
基本的に議論というのは、感情に訴えかけるものではない。誰にとっても正しい意見なんて無いからだ。
人間の視力を考えてもらうとわかるが、ピントが合っているところは鮮明に見える。他のところはぼんやりとしている。視野の外に関しては、全く見えていない。
何かを見ると、必ずどこかに死角が生まれる。
それと同じく、「何かを主張する」ということは、「何かを主張しない」ということだ。「何かを正しい」と信じることは、「何かが間違っている」と信じることである。
僕はあまり強く何かを主張したり、正しいと言ったりすることは無い。動画活動ではよく喋るやつだと思われていると思うが、プライベートや仕事ではほとんど意見をしない。
人の話を聞いて同意したり、はぐらかしているだけで、よほどのことがない限り否定もしない。
「何か意見は無いか?」と求められれば、客観的な意見を言う。だから、いづれにせよ「自分が人に言いたいこと」は少ない。しかし、立場上、それでは成り立たない時がある。僕はそういう面白みにかける人間だから、たまには何か「刺激的」なことを言って見せたりしなければならない。
そのピントがずれているから、厄介な空気になることが稀にある。
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