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期待はかけすぎず、自分に正直になる

昔から、「優しすぎる」「人が良すぎ」とよく言われていた。別に何か見返りが欲しいからとか、相手に好かれたいからとかなんていう理由でそうしているわけではない。自分自身、無意識でそうしているだけなのだ。

しかし、時間が経つと時々、ふとそれらの言葉について深く考えてしまう。

”私ってそんなに優しいのかな”とか”お人好しなのかな”とか…。

そうやって行動を振り返っているうちに、だんだんと悲しくなってくる。まるで自分が損しているような感覚になって。

ある時、「優しいね」と言われることがストレスになっていた。普通は褒め言葉、ポジティブな言葉として捉えられるはずの言葉が、私にとっては憎く感じていた。相手はそんなつもりで言っているわけではないのだろうが、私にはまるで、「この人は優しいから、何を言っても大丈夫だろう。」と言葉の悪魔の囁きが聞こえるのだ。

この時の私は、完全に言葉の悪魔に侵されていたのだろう。言葉に表と裏の顔があるとするならば、どんな褒め言葉を言われても裏の声ばかりが聞こえる。そして、自分勝手に物事を悪い方向へと追いやってしまうのだ。

”そもそも、私がこの人のためを思って一生懸命動いたところで、さらっと感謝されるか、あるいは相手は何も感じないまま普段通り、感謝もせずにただ終わるだけではないか…?”

”そんなことなら、別に私が一生懸命動く必要性などないのではないか…”

などといったように。


しかし、この時ふと思った。

実は無意識のうちに、私は相手に何らかの見返りと期待をかけていたのではないかと。私は誰かから頼まれごとをすると、可能な限り全ての依頼を受ける。そして、受けたからには相手が頼んでよかったと思ってもらえるように、少しでも何かしらの付加価値的なものをつける。相手の依頼した希望に対して少しでも越えれるように。しかし、この時点で相手の返答に対して期待をかけていたのだ。だから、相手からの返答が自分の期待通りではなく、予想に反して普通だった際には何となく気持ちが沈む。


そのことに気づいてから、必要以上に相手に期待や見返りを求めないようにした。これだけ聞くと何だか淡白で冷淡な人のように聞こえるかもしれない。しかし、私自身は相変わらず何かしら頼まれごとをした際や、友人や家族などが困っている様子が見受けられる際は、自ら相手のために動いたり、依頼を越えられるよう意識しながら動いている。ただ変わったことは、自分の気持ちを優先して動くようにしたことだ。これまでは、相手を中心に考え、相手のためになるならとりあえずやろうといったようにして動いていた。しかしそれでは、本当にやりたくないことに対してや、何となくな曖昧な気持ちで行動しているせいか、それなりの返答が相手から返ってこないと自分だけ損した気持ちに陥りやすい。

しかし、自分がこの人のために動きたいと思えば、その人のためなら自分の時間を費やしても良いと決めているため、自然と必要以上の期待や見返りを求めなくなっていた。そのため、自分の気持ちが沈むこともなくなったし、逆に相手から、予想打にしなかった感謝やお返しが来れば気持ちは高まる。


とはいっても、私も人間なもので、疲れている時やストレスが溜まっている時、何かしら思い詰まっている時には、やはりいまだに自分が頑張って相手に尽くしすぎているのではと思うこともある。

そんな時に私がよく行うことが以下2つだ。

①思いっきり自分を褒める

②成長の過程だと捉える

①について、何だか気恥ずかしくなるが、相手のために相手の気持ちを考えてここまで動けることはすごいことなんだと褒めてあげる。世界中の全ての人がこれができるわけではないのだから、ある意味才能なのだ。このように考えると、気持ちが楽になる。

②について、人のために、どのようにすれば相手が動きやすいか、よりわかりやすいかなどと自分の中で試行錯誤する中で、自然とアイデアを生み出す力や客観的に物事を考える力などが身についていると捉える。こうすることで、何だか、自分の成長が感じられてくる。そして、相手のために動いていたことが、自分のためにもなっていたことに気づく。


このように考えることで、たとえ気持ちが沈んだとしてもまた一歩踏み出せるようになった。


もし、自分が優しすぎることで損している気分になっているなら、一度立ち止まって、無意識のうちに相手に期待や見返りを求めていないかを見直し、もしそうであれば、この記事を参考にしていただけたら幸いだ。



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