短編小説『夜の影』
こちらの小説は、3つのお題をもとに作成した小説です。
(お題は自分で収集し、ランダムで選定しています。)
使ったお題は最後に掲載しています。
最初にお題を見るも良し、お題が何なのか考えながら読むのも良しです。
※鬱々とした作品です。読む際は注意してください。
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年末に差し掛かってきたせいか、仕事がどうにも忙しかった。暗く光る路面で滑らないよう、足元に気を付けながら歩く。抜けていく風は容赦なく体温を奪い去り、すっかり全身が冷え切って首筋や口元がこわばっていた。
パソコンに長時間向き合っていたせいで目がしょぼしょぼする。元々コンタクトレンズが合うタイプではなかったが、メガネは何かと不便だった。目薬をいくら差したところで意味はなく、しきりに瞬きをしても潤いは追いつかなかった。冷たい風がさらに追い打ちをかけてくる。
目の乾燥がさらにひどくなり、視界がぼんやりとしてきた。眉間に皺を寄せながら瞬きをした瞬間、ポロリと右目から何かが落ちた。あ、と思って何度も瞬きすると、さらに左目からも何かが落ちる。乾燥のしすぎでコンタクトレンズが落ちたらしい。こういう経験が数回あったが、両目の、しかも出先で落とすのは初めてだった。使い捨ての物だったからいいものの、視界はすっかりぼやけてしまった。にじんだ光や人の形は何となく分かるが、見えないというのはとてもストレスだった。
冷たく乾いた風が容赦無く押し返してくる中、眉間にシワを寄せ、目を細めながら足早に歩く。コンビニでお酒を買って行こうと思っていたが、行く気はすっかり失せてしまった。冷蔵庫にビールはあっただろうかと考えながら歩いていると、少し先をふらふらと歩いていた人が、その場にしゃがみ込んだまま動かなくなった。きっと、靴紐でも結んでいるのだろう。そう思ったが、近くを通り過ぎるとき、うめき声のようなものが聞こえたので歩く速度が緩くなる。一瞬のうちに、助けるか助けないかの論争が頭の中で繰り広げられた。近くにいた人はジロジロ見るだけ見て通り過ぎて行く。
「大丈夫ですか?」
無視して帰って罪悪感に苛まれるのも嫌だったので声をかけた。うめき声が息と共に漏れ出ているようで、ずいぶん苦しそうである。暗いということと、相手は黒いフードのようなものをかぶっているので、顔はよく見えなかった。どうせ見えてもぼやけているが。
「救急車呼びますか?」
「いや……飲み物を……喉が渇いて」
掠れた低い声で、息をするのもやっとのようだ。
「それなら……」
肩にかけていたショルダーバッグの中から、未開封のお茶のペットボトルを取り出した。仕事中に同僚から貰ったものだったが、全く飲まずに持ち帰ったものである。本当は温かかったが、バッグの中で冷え切っていた。
「お茶しかないんですが」
「十分だ。くれないか?」
「どうぞ」
伸ばされて来た手に、ペットボトルを握らせる。相手はぼやけていても分かるくらい震える手でキャップを開けて飲み始めた。その状態のまま数十秒、ようやく男性は安堵したように息を吐いた。
「助かった。どうもありがとう」
「大丈夫ですか?」
「ああ、すっかり良くなった」
男性はすっと立ち上がると、力強く肩を掴んできた。少し痛いくらいだ。
「この恩は必ず返そう」
まるで言い聞かせるようにゆっくり言うと、颯爽と歩いて行って夜の影に紛れてしまった。全身真っ黒だった彼の年齢も、表情も、ついぞ分からなかった。強く掴まれた肩がジワジワと痛んで熱を持っていた。
家に着くと、妻も子供も眠っているだろうと思い、忍び足で中に入る。視界のぼやけと暗いせいで、たまに足をぶつけたり肩をぶつけたりしながら、ひとまずメガネを取りに行く。一気に視界が鮮明になると気持ちがよかった。世界の見え方が変わるとはまさにこのことである。
妻が準備してくれていた肉じゃがを温めて食べる。ビールは冷蔵庫になかった。時刻はもうそろそろ、明日になる頃である。疲れてはいるものの、頭は冴えていた。テレビの音量を小さくした状態でニュース番組を見ていると、『速報。工事現場から鉄骨が落下し一人死亡』と表示されている。あまり遠くない場所での事故だったので、言い知れぬ恐怖がすぐそばまでやってきたような気がした。
日付を跨いでから眠ったせいで朝の目覚めは最悪だった。今日が休みだったら良かったのだがそうもいかない。まだ木曜日である。
「おはよう。昨日は遅かったの? 十時くらいまで待ってたんだけど」
「ごめん。いや、まいったよ」
妻はテレビをぼんやり見ている子供たちを急かしながら「何が?」と返す。
「帰って来る途中でコンタクト落としちゃってさ、しかも両方」
「そんなことある? よく帰って来れたね」
「案外いけるよ」
その流れで、助けた男性のことを口にしようとしたが、口がもつれてうまく言えなかった。同時に子供が牛乳をテーブルにこぼしたので、それどころではなくなった。テレビでは昨日の夜中にやっていた、鉄骨落下のニュースを取り上げている。稼働していない夜中の工事現場で、人がいなかったはずなのにどうして鉄骨が落ちてきたかという議論を繰り広げている。いつどこで死ぬのか分かったもんじゃないなと思いつつ、妻と子供たちを置いて死ぬわけにはいかないなと、知らず知らず力が入った。
あと数日で今年も終わりという頃になってくると、途端に仕事が減ってきた。すでに休みに入っているのだろうか。それに引き換え自分は二時間の残業をするのは確実だった。
厚手のコートに身を包み、昨日よりは早い時間に会社を出る。仕事が終わったわけではないが、ダラダラやっていても終わらなそうだったので早々に見切りをつけた。
道には人が多くそれぞれ口元に白い息を纏わせながら歩いていてる。普段なら苛つくところだが、混んでいるのが逆に嬉しかった。真っ直ぐ家に帰って、久しぶりに家族みんなでゆっくりと過ごしたい。足取りは自然と早くなった。
あと数分で家に着くという頃に、聞き覚えのある着信音が鳴った。とても嫌な予感がしたので無視してやろうと思ったが、後々のことを考えるとそうはいかなかった。確認してみると、上司からである。嫌な表情は隠さなくとも、声に出ないよう細心の注意を払いながら電話に出る。どうやら、急遽明日必要になった資料の作成を頼みたいとのことだった。無理だと言おうか迷ったが、上司には何かと良くしてもらっているので無碍にもできない。家族の笑顔が思い浮かんだが、今度埋め合わせをすると心で謝罪をしてから、返事をしつつ踵を返した。大量にこちらに向かってくる人の群れが敵のように思えて腹立たしかった。
今日も遅くなると妻に連絡をすると、分かったという簡素な言葉と一緒に、子供たちががっかりしているというような内容の返事が帰ってきた。心が痛んだので、年末年始は目一杯家族との時間を大切にしようと心に決める。
会社に戻ると数人の社員がちらほらいるくらいだった。その中にすっかり帰り支度を済ませて、さあ帰ろうかという状態の上司がいた。そして彼は、電話をした覚えがないと言った。上司は驚いた顔をしていたが、こちらも驚いている。証拠を見せようと着信履歴を見てみるが、どこにも残っていない。
「疲れてるんじゃないか? 早く帰って休んだ方がいいな」
上司は笑いながら労うように肩を叩くと、温かいコーヒーを奢ってくれた。無駄足を踏んだという怒りよりも、妙な胸のざわつきがあった。
二回も往復してしまった道を、何かに追われているかのように早足で歩く。と、消防車のサイレンの音がけたたましく鳴り響いているのが聞こえてきた。どこかで火事だろうか。そう考えながら歩く先に、立ち上る煙を見つけた。まさに、自分が帰る家がある方角だ。まさか、そんなのはあり得ないと思いながら、自然と駆け足になっていた。
近付いて行けば行くほど、家の方角から煙が上がっている。どこが火事になったんだろう。家族は無事だろうか。ポケットから携帯電話を取り出して、妻に電話をかける。繋がらない。にわかに道に人が多くなり、混雑し始めた。
火事の現場は、混雑していてもよく見えた。周りを照らすほどの赤々とした炎に包まれているのは、ほんの何時間か前まで寝起きをして生活をしてきた我が家だった。消防車が何台も周りに停まり消火活動をしている。人々をかき分けるように前に出て、野次馬たちを牽制する消防士の一人に声をかけた。
「中の、家族は無事ですか?!」
「この家の方ですか? まだ確認できていません」
どうにか押し切って家に近付くが、また別の消防士に止められた。
「危ないですから離れて!」
大きな炎は、消化ホースから勢いよく噴き出す水に負けることなく、家を飲み込んだままである。
もう一度電話をかけたがやはり繋がらない。
「ここは危ないですから離れてください」
消防士に背中を押されるまま家から離れる。きっと大丈夫だ。みんなとっくに避難している。そう言い聞かせて、人々の顔を炎の明かりを頼りに見ていると、左肩に重みを感じた。
「助かって良かったな」
喧騒の中でもしっかり聞こえたのは聞き覚えのある男性の声だった。少し振り返ると、昨日声をかけてお茶をあげた男性が立っていた。以前と変わらず黒いフードを深く被り、その表情は炎の明るさでも見えない。
「何がですか?」
「君はあの炎に巻き込まれなかった。出火の原因は暖房器具の消し忘れで布団に引火。寝ていたせいで気が付くのが遅れたのさ」
まるでその場にいたかのように言う男性の肩を掴んだ。
「どうしてそんなことを知ってるんだ」
「私は君たちとは違う存在だから分かるのさ。一応言っておくが、私が仕組んだわけじゃない」
男性は笑いを含ませながら言ったので、苛立ちはさらに募る。
「妻は、子供たちは、無事なんだろ?」
「もう薄々気付いてるんじゃないか? 君の家族は、あの炎の中にいる」
寒い中で熱く乾燥している空気の中、目は視界が滲むほど涙を蓄えていた。
「でも君は無事だ」
「俺よりも、家族を……」
「言っただろう? この恩は返すと」
「だから、俺の家族を助けてくれ」
「君の家族は含まれていない。君だけに返した」
カッとなって掴みかかろうとするが、それを止めたのは家が崩れる音と、消防士の「危ない!」という声だった。家の二階部分が崩れ、巻き起こった風と共に火の粉が飛び散る。どこからともなく悲鳴が聞こえてきた。
「あの日君が私を助けてくれたおかげで、あの人間からきっちりと対価を貰えた。約束を破らなきゃ、鉄骨の下敷きになることはなかったのにな」
そのときチラと見えた笑う口元は、回転灯と炎の色を吸収したかのように深く不気味な赤色だった。
「君には心から感謝する。それじゃあ、また会えたらよろしく」
男性は背を向けてから歩いて行き、そのうち夜の影の中にのまれて見えなくなった。
こんなことになるのなら、あの男性を助けずに無視していればよかった。最後まで家族と一緒にいたかった。今更あれこれと考えても、炎は勢いを弱めることなく燃え続けている。
星一つない夜空に火の粉が舞い、星のように輝いては消えていった。
お題『夜中・救助・コンタクトレンズ』