
鉄砲から見た和時計【107】
どういう関係?
時計は鉄砲と時を同じくして伝わった。そして、西洋の定時時計を日本固有の時刻制度である「不定時法」に合わせて改造されたものを和時計という。
不定時法とは、夜明けから日暮れまで、また日暮れから夜明けまでを、それぞれ六等分して一刻とするものです。一刻は約二時間ですが、日の出、日の入りの季節変化によって、一刻の長さが毎日変化するという複雑なものです。
私は通勤の時、東に向かって走る。太陽が昇る位置が日々変化しているのを見て季節の移ろいを感じる。この感覚は日本人特有と言われて、改めて四季の変化に富む日本に生まれたことに感謝した。
太陽と時と日本人
不定時法は、「明け六つ」に始まる朝から「暮れ六つ」の夕までを昼間とする時刻の決め方。現在の「日の出」「日の入り」とは違う。どうするかというと、自分の掌を頭上にかざし、掌紋がはっきり見える瞬間を明け六つ、見えなくなる瞬間を暮れ六つとした。住んでいる場所、身長、視力など、人それぞれで時刻が異なるのだ!なにより天気にもかなり左右される。そんなんあり?! よく「沖縄時間」と言って、沖縄の人たちが時間にルーズだと揶揄するが、コレなんじゃない? 沖縄の人たちは、古来からの日本時間、自分時間を生きているのでは? なんて思った。だとすれば、うらやましいかぎりである。
(前略)わが国が明治にいたるまで世界でただ一国のみ不定時法を墨守し続けたのは、太陽の光に忠実に生活を合致させるためでした。不定時法こそは自然に順応した合理的な生活時法であり、江戸時代のわが国が整然たる管理社会としてよくまとめ上げられ、人々は勤勉で清潔で、人心は穏やかであったのはこのためです。
日時計が開発されたのは紀元前2千年にも遡る。ヨーロッパや他の一部の大陸では、大型の公用日時計が街の中心に据えられていたが、日本には存在しなかった。これは、社会体制の相違によるものらしい。つまり、「時」は王が管理するもので、つかさどるのは王の絶対的な権限とする説がある。ヨーロッパでは都市の広場や教会の塔などに巨大な日時計や機械時計を設置していた。市民たちに共通の時間を与え、その同時性を利用して権力者たちが都合良く支配するためだ。日本にはこれに代わるものに太鼓や梵鐘があるが、これは見る時計ではなく聞く時計なので、時刻は大まかだ。日本には人民から「時」を奪ったり、押しつけたりする歴史はなかった。西洋から取り入れずとも、日本では遥か昔から個人個人が尊重されていたという証左だろう。
伝家の宝刀魔改造
大まかな刻みではあるものの、時間感覚に優れた日本人は、外国から伝わった定時時計を自分たちの時間感覚に合うように改造した。これこそ元祖魔改造か?
明け六つと暮れ六つが日々変化する「日本時間」に合わせるため、和時計は1日2度、分銅を調整する必要がある。そして、この操作と調整はある程度の知識を要するため、和時計を操作できることは立派な教養のひとつであった。
この和時計、作るのにも大変高度な技術を必要とする。そしてそれは秘伝とされ、技術は一子相伝。しかも口伝で伝わった。初期の和時計に関する文献が残っていないのはそのためで、後世外国人がその価値に気づき、研究がなされたという。どんだけすごいんだ日本人! そして、自分たちのすごさに気づいていないところが、またいい。
日本人は本当にお日様とともに生きてきた「日の本」の民だったんだなあ。私も早く引退して、お日様とともに生きたい(笑)