『バチェロレッテ2』の気になるところ
令和4年7月28日、Amazon Prime Videoにて配信されていた『バチェロレッテ2』が幕を閉じた。
『バチェラー』『バチェロレッテ』シリーズは、ここまでさまざまな意見や事件もあったが、総じておもしろく観ていた。
しかし、今回の『バチェロレッテ2』は、過去作とは異質の作品だと感じた。
その「異質さ」ゆえに新たな「おもしろさ」と、「問題」が浮かび上がってきた(実は、この「問題」は『バチェラー』シリーズの最初からあったものだが、今回を機に指摘しておきたい)。
それについて、少し考察してみたい。
ちなみに私は、7月29日現在ネットで多く見られる「最終的にだれが選ばれたか」あるいは、「誰が選ばれるべきだったか」という主張のいずれかには加担しない。ゆえに、「誰が選ばれたか」という件については扱わない。
もちろん『バチェロレッテ2』に関する論考だから、多少内容は扱うが、ネタバレなどは気にせず読んでいただけることと思う。
『バチェロレッテ2』の異質な「おもしろさ」
今回のバチェロレッテは、ひとりの参加者によって大きな揺さぶりをかけられた。
他の男性参加者にとっても、視聴者にとってもだ。
その参加者というのは、もちろん「マクファー」こと、佐藤マクファーレン優樹さんのことだ。
彼は非常に「まっすぐ」な男だ。
今回のバチェロレッテである、尾崎美紀さんに対してまっすぐに愛の言葉をささやく。
それはときに、否、大抵の場合過剰であるように見えるが、その欠点ともいえる一途さがマクファーの武器でもある。
しかし、その「まっすぐさ」ゆえに、マクファーと他の男性陣の間に、大きな溝を生むことになる。
例えば、美紀さんと男性複数名でデートを行う「グループデート」において、ほかの男性もいる中、自分一人だけ美紀さんにべったりくっついて離れなかったため、そのやり口に対して他の男性から不満の声が上がった。
マクファー以外の男性たちは、デートの場が全員にとってよいものになるよう気を遣いつつ、その中でチャンスをうかがう、という奥ゆかしい方法をとっていたにも関わらず、である。
また、デートに参加できなかった男性が、一対一でゆっくり話す機会を得る可能性がある「カクテルパーティー」においては、美紀さんを誘いたいが、ほかの男性と話しているため、それに遠慮して声をかけるタイミングを伺っている参加者に対して「そんなもんなの?お前の美紀ちゃんへの想いは」とプレッシャーをかけるという場面もあった。
このように、マクファーは他の男性参加者に対して強く「ストレス」を与えてきた。
もちろん、それが意図的なのかそうでないのかは、わからない。
マクファーがそのような行動を取り、ほかの男性たちはフラストレーションを募らせていった、という事実があるだけだ。
そして、ここに『バチェロレッテ2』に特徴的なある構図が生まれる。
それは、「マクファー」対「そのほかの男性たち」という対立構造だ。
振り返ってみれば第一回の『バチェロレッテ』から、男性から女性へのアピールやデート以外に、「男性同士の関係性」も、この番組を支える重要な要素だった。
初代の『バチェロレッテ』では、一番最初のカクテルパーティーから、雰囲気にのまれてしまい話しかけに行けなかった"杉ちゃん"を、ほかの男性たちが支えるという場面が見られたし、「ストールンローズ」をめぐる熱い議論と、その権利を「譲る」決心をしたときの表情も、男性同士だからこそ見ることができる、一種独特なものだった。
『バチェロレッテ』シリーズでは、男性同士の勝負、気遣い、そして次第に形成されていく友情、これらの要素が大きな位置を占めているのだ。
話を『バチェロレッテ2』に戻そう。
マクファーが引き起こした男性内での対立を、美紀さんとの関係性でまとめると「美紀さんとだけ向き合うマクファー」と、「周囲の男性にも気配り・目くばりをしながら、美紀さんと向き合う他の男性陣」となる。
そして、後者の男性の代表格が、MCの岡村さんも大絶賛の阿部大輔さんだ。
阿部さんは、ローズを受け取れなかったら即脱落の「2on1」デートには勝ったものの、友人が去ることになり辛い思いをしている男性に寄り添うべく、他の男性たちに声をかけるなど、男性同士の和、言ってみれば「男性社会」を形成することにも力を注いでいた。そんな阿部さんは、男性陣には「兄貴」的存在として慕われていた。ちなみに阿部さんは参加男性の中で最年長(40歳)である。
今何気なく「男性社会」と書いたが、この観念こそが、「周囲の男性にも気配り・目くばり」をする男性たち、すなわちマクファー以外の男性たちの行動を規定することとなる。
その代表的な例が、この男性社会の中で「男らしい」という価値観が重視されていたことだ。
今回の『2』でも導入された「ストールンローズ」。それを誰が使うかを議論する場面があった。その際に、マクファーは一度「自分は使わない」という意思表示をした。
その場面を振り返るインタビューにて、ダンサー・歌手の山邊玲音さんが「二言はないよね」と話していたのだが、マクファーは前言を撤回。ストールンローズを使用し、デートの権利を勝ち取った。
デートの権利を奪われて帰ってきた中道理央也さんと山邊さんは「男に二言があったんだね」と言葉を交わし、他の男性陣も煮え切らない表情をしていた。
「男に二言はない」ことの重要性が前提となったこれらのやり取りからもわかるように、マクファー以外の男性陣にとっては、女性を抜きにした男性同士の関係性、つまり「ホモ・ソーシャル」な関係性が非常に重要になっていた。
この『バチェロレッテ』での男性参加者の目的は、ひとりの女性のハートを射止めることであるはずだ。しかし、男性が複数人集まり生活を共にすれば、その中では次第に、「男の中で評価される男らしさ」のような、目的とはあまり関係のない「男性的な」価値観が、雑草のようにむくむくと生まれてしまう。
男性陣の間に「ホモ・ソーシャル」が形成されたということについて、少し否定的なニュアンスがあるように感じるかもしれない。しかし、むしろこれがあったからこそ、今回の『バチェロレッテ2』はおもしろかったのだ、といいたい。男性同士の絆が生まれ、女性を奪い合うというゲームに向き合う真剣さや口論などのドラマ、そして涙や抱擁という「熱さ」が生まれたのは、男性の間に「ホモ・ソーシャル」が形成されたからだ。
「熱さ」の他にも収穫がある。それは、敗北した男性たちの振る舞いに現れたものだ。「ホモ・ソーシャル」の世界において男性は、「負けた時に潔くふるまう」ことが要求される。
負けた時に潔くふるまわない男性は「女々しい」ため、「男らしい」という称号を得るに値しないのだ。そのため、『バチェロレッテ』シリーズにおける男性たちの去り際は、実に気持ちの良いものになっていた。
その一方で、さらに重要なことがある。先ほど、マクファーが男性陣の中に対立構造をつくり出したといったが、奇妙なことに、マクファーがつくりだした対立構造によって、マクファーはホモ・ソーシャルからはじかれていたのだ。
マクファーは、美紀さんに100%向き合うということを行ってきたわけだが、男性同士の関係性を生きることにエネルギーを使っていた「マクファー以外」の男性たちと、純度100%のエネルギーを美紀さんだけに注いだマクファー、いったいそのどちらが、美紀さんにとって魅力的に見えただろうか。
ちなみに、女性にだって、男性の「ホモ・ソーシャル」が好きな人もいる。ホモ・ソーシャルが好きな女性の価値観は、「男性は男友達を大切にする人の方が信頼できる」といったような言葉として、表現されることがある。
しかしながら、美紀さんは経営者として自立した人生を歩んでいることからもわかるように、ときに女性を自立した存在とみなさず、ときに女性嫌悪さえ抱くホモ・ソーシャルが好きではないようだ。
ここに、「ホモ・ソーシャルから距離を置く美紀さん」「ホモ・ソーシャルからはじかれたマクファー」「ホモ・ソーシャルを形成する男性たち」という構図が浮き上がってくる。
この構図から番組の結末を推測することも可能かもしれないが、ここではそれはしない。重要なことは、「ホモ・ソーシャル」を生み出した男性たちの間で、熱いドラマが生まれていたということを確認することだ。
『バチェロレッテ』に限らず、漫画や映画でも、「ホモ・ソーシャル」がドラマを生み出す例は枚挙にいとまがない。加えて、これを魅力だと思う人も多い。もしかしたら、「男性的価値観」は美しいもので、ジェンダーフリーが進む現代においては、それが消えゆく運命であるからこそ、一層輝いて見えるのかもしれない。
古き男性的価値観を信じ、それゆえに脱落していく参加男性たちは、滅びゆく江戸幕府に対して武士道を貫き殉じていった、新選組のようなものだったのかもしれない。
ホモ・ソーシャルをことさらに美化するつもりもないが、『バチェロレッテ2』でそれが光ったという点において、参加男性たちには祝福を送りたい。
『バチェロレッテ2』の問題
冒頭にも書いたが、この「問題」は、『バチェラー』シリーズの最初からあったものだ。
これらのシリーズの基本的な枠組みは、ひとりのハイスペックな女性(男性)を、参加者のこれまたハイスペックな男性(女性)が奪い合うというものだ。
それを踏まえて、番組の宣伝文はこのように書かれる。バチェロレッテ(バチェラー、以下「バチェ」で統一)はこの旅をとおして「真実の愛」を見つけられるのか、と。
「真実の愛」というのは、なんとも胡散臭い言葉だ。また、誰もあの番組において「真実の愛」が見つかるとは思っていないだろうし、そもそも「真実の愛」の定義すらあいまいだ。
だが、実際にバチェロレッテとして参加した個人が、「どんな愛の形でも構わない」と思っているかといったら、そうでもないだろう。
個性と人生の歴史を持ち、周囲に大切な人のある彼女らには理想があり、それゆえに「理想的な愛のカタチ」を求める。
そして、「理想的な愛のカタチ」は、見ているMCや視聴者にも(意識的にも無意識的にも)共有される。
誰でもわかるように、「理想」が描かれるからには、「理想ではない」として切り落とされる現実がある。
実はこの「切り落とされる現実」こそが問題なのだ。
では、いったいなぜ、このことが「問題」になるのだろう。
それは、私たちの多くが、『バチェロレッテ』(『バチェラー』以下『バチェ』で統一)シリーズによって、「切り落とされる現実」の中に入れられてしまっているからだ。
『バチェ』シリーズでは、参加者が4人ないし3人に絞られると、「家族に会う」という段階へと進むことは、多くの人がご存じだろう。
ここまで大変な思いをして残ってきた参加者と、大変な思いをして選んできた「バチェ」。
「バチェ」にとって、ここからさらに選ぶことが難しくなる中、魅力的な家族に触れることで、参加者の新たな魅力を発見するきっかけにもなる。
それだけでなく、参加者の親御さんと深い話をする中で、人生観が深まったり、愛についての理解を深めたりもする。
『バチェ』シリーズが「結婚」をゴールとして設定している限り、家族との出会いは感動的な場面を生む。
よい家族と、よい家族に育てられた魅力的な人との魅力的な交流。それを垣間見ることの楽しさは、否定するべきものではない。
問題は、この番組が「よい家族」と「真実の愛」を、セットにしているということだ。
『バチェロレッテ2』の6話において、MCのSHELLYさんが
「判断材料として、相手の家族ってすごく大きいと思います」
「家族を見ると、より見えてくるじゃないですか。その人間性とか」
という発言をしていた。
それに対して矢部さんと岡村さんも同意している様子だった。
だが、ここに「差別」があるのだ。
あらかじめ言っておきたいのだが、私は、この発言をつかまえて、SHELLYさん個人を、あるいはMCの3人を批判したいわけではない。
むしろ、この誰でも持っているような「常識的」な考え方が、ある人々にとって絶望的な状況を生んでしまうのではないか、ということを問題提起したいのだ。
「家族を見ると人間性が見えてくる」という考え方の背景には、「家族に愛されて育った人は、愛の深い人になる」という想定がある。
この想定が正しいか間違っているのかは一旦置いておくとして、その想定の裏側には、当然こういった考え方が隠されている。
「家族に愛されなかった人は、人として欠落を抱える」
実際にこう口に出す人は少ないだろう。しかし、映画や小説、漫画などの物語において、悪人の過去には育児放棄があったり、愛情がないのにやたらと勉強することだけをうるさく言われてきたり、虐待されていたり、といった描かれ方をすることが多い。
社会は無意識に「正常」と「異常」の間に線を引く。そして決めつける。正常な家庭で育った人は正常で、異常な家庭で育った人は異常だと。もちろん、「悪気」はない。
これはとても残酷なことだ。
ここに「真実の愛」が合流してくると、事態はさらに残酷なものになる。
愛のある家庭で育った「バチェ」が、愛のある家庭で育った参加者と、「真実の愛」で結ばれるというストーリーを、『バチェ』シリーズは視聴者に提示しているのだ。
つまり、「愛のある家庭で育った人(「正常」な人)」だけが、「真実の愛」を得るにふさわしく、「愛のない家庭で育った人(異常な人)」は、「真実の愛」にはふさわしくない、というメッセージだ。
ここには明確な 「差別」がある。
しかも、生まれる家庭は選ぶことができないだけに、生まれた段階で差別を背負ってしまうのだ。
これは、人間を肌の色で差別していることとなんら変わりはない。
そもそも『バチェ』シリーズは、容姿がよく、経済力があり、人間性も豊かで、家族に愛されていて、五体満足。そういった人を「完璧な人」であるとみなし、主役として提示する。
もちろん、その愛を受け取れるのは、容姿、経済力、豊かな人間性、あたたかい家族・・・そのすべてを持っているとは言わなくても、そのいくつかを持っている人だけだということになる。
はたして、ここに入れない人は、「真実の愛」を得る資格が、本当にないのであろうか。
もし、『バチェロレッテ』において、男性参加者の中に、人間性は抜群にすばらしいのに、家族から虐待されていた人がいたとしたら?
もちろん、恋愛は個人と個人の問題だから、『バチェ』というシチュエーションでなければ、そのふたりが恋に落ち結婚する可能性はあるだろう。
しかし、「番組」として考えたとき、これは難しい問題だ。「家族に紹介する」という場面がある以上、本人がどれだけすばらしくても、問題のある親を出すわけにはいかない、と制作側は考えるだろう。
その場合、そもそもそういった人を出演させないほうがよい、という判断になりはしないだろうか。
だが、その「問題」も、どこまでが「問題」とされるのだろうか。親に前科があったら、たとえ今は立派に社会で務めを果たしていても「問題」なのだろうか。冤罪で捕まった経歴がある場合は?カメラの前に出ることを一切拒否する親だったら?
もちろん、その場合は友人を紹介するなどの代替案を取ることも可能だ。だが「親を紹介できない」ということが、「バチェ」にとって、また「バチェ」の両親にとって大きな障害とならないだろうか。
もうひとつ思考実験をしてみたい。例えば、五体満足でなく、人に面倒を見てもらう必要がある、例えば乙武洋匡さんのような人が参加者にいたら?
これは番組側としてはさらに難しい問題だ。そういった方を「選ばなかった」場合、参加者への同情から「バチェ」には多数の批判が寄せられるだろう。
そのことが予測できる場合、「バチェ」の方でも判断に狂いが生じる可能性がある。
そうした際に、「番組」としては何か微妙な印象になってしまうだろう。
しつこいかもしれないが、そういった人々を「ショー」から除外するということは、どうなのか。
そして、そういった人々を「真実の愛」から除外することは、どうなのか。
もちろん、あくまでこの番組は「ショー」であり「エンターテイメント」なのだし、全方位的にポリティカリーにコレクトな番組はつくれないのだから、そういったことは考えずに楽しむということが、基本的なスタンスだろう。
だが、現実の世界でも、これと似たようなことが起こっているのではないだろうか。
容姿から恋愛をあきらめる人、経済力から結婚をあきらめる人、また、親から愛されたことがないゆえに、他人の愛し方がわからず、孤独に苛まれる人・・・。
もちろん、本人の努力不足もあることだろう。しかし、「持たざる者」にとっては、努力で解決することが非常に難しい問題もある。その難しさは、親から愛されて育ったような「持つ人」には、想像を絶するはずだ。
こういった問題は、「無敵の人」を生んでしまう一因にもなると思うのだが、どうだろう。
実は、これが、今回の論考にこの章を入れた一番の理由だ。
「愛」の問題は一番難しい。経済なら、社会保障を手厚くするなど仕組みである程度解決できる部分もあるだろう。しかし、愛を平等に配るとなると・・・。
「自由恋愛をやめて、マイナンバーカードの番号でランダムにマッチング」などというわけには、いかないのだ。
これについて私は解決策を持たない。
しかし、親に愛されていなくても、本人の想像を絶する努力でそれを乗り越えた魅力的な人、あるいは乗り越えようと必死にがんばっている人もいる、ということはわかってほしい。
ぶっちゃけ、今回の『バチェロレッテ2』はよかったのか
以下からはネタバレを含みつつ、『バチェロレッテ2』についてぶっちゃけたところを語っていきたい。
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