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死への恐怖と魅力について

わたしはすぐに死にたくなる。
辛いこと、耐えられないことに直面した時に、逃げるとか向き合うとかいう選択肢の次のステップくらい先に「死ぬ」という選択肢がある。
その考え方が癖になってしまっている。

現代人がこのような思考に至ってしまうのは非常にマズいと思っていながら、どこかで安寧の終着地を求めている自分がいる。
自殺願望があるのか?と言われたら、そんなことはない。ただ生と死が二項対立で語られる文脈にいないだけだ。
人間が自らの意思で命を断つという現象が、あまりにも自然で極めてナチュラルな現象のように思えてしまうのだ。

「人身事故の影響で電車が遅れております」と頻繁に耳にする。迷惑だな、と思う。人の死や自殺というワードを連想させないような配慮がなされたアナウンスに身を委ねてしまう。
毎日ウクライナやシリアやアフガニスタンで多くの「死」があるに、耳に入っては流れ出ていく死の速報が、まるでスポーツの実況中継かのように感じてしまう。ロシアとウクライナという2つのチームがボールを巡って争う中で、リアルな人間の死があるとは思えない。

わたしはここで自分の生きることへの覚悟のなさだとか、精神疾患だとか、思春期の自殺願望だとかの話をするつもりはない。若者、日本人として分析される気持ち悪さを身に染みて感じている。心理学は嫌いだ。死にたいと思う気持ちの原因を、個人の感情に帰結するな。
(死にたい可哀想な人間は、温順しく分析対象になるべきなのだろうが)


日本には毎年2万を超える人が自殺するという。
「自殺対策」という文字が、上滑りした滑稽な表現に思えてならない。

どうやら日本国は、わたしに死んでほしくないらしい。
まあ少子化対策と国家予算とGDPに貢献してやるのも悪くない。

〜誰も自殺に追い込まれることのない社会の実現を目指して〜

厚生労働省、2022年、「自殺対策について」。

ただし、この文章は引っかかる。おい、なんだよそれ。
自殺は、追い込まれるものなのだろうか?
追い込む第三者がいるということなのだろうか?

これは持論であるが、

動物は、死なないために生きている
人間は、死ぬまでの間を生きている

動物には死の恐怖はないという。ただ漠然と「死=終わり」という認識があり、その純粋な野性だけが彼らを生に引き止めるものである。

一方で我ら人間には、死への途方もない恐怖がある。
死への恐れは同時に死へ惹きつけられることだ。「死=終わり」の先を想像したものが宗教であり神話であり、死を希望に転換させてしまう理性が我々人間にはあると言えるだろう。

だからこそ、人間にとって死ぬことは、生きること以上に自由に許された権利なのである。いつ切れるかわからない時限爆弾があるのなら、いつ爆発させてもいい、そうする方法を知っているのが人間だ。


生きることと死ぬことは、決して対照的に描かれるようなものではない。
希望と絶望の二項対立ではない。
相互が延長線上にあるもの。
片方が認識されることによって、初めてもう片方の概念が生まれるもの。

そう考えると、生や死は極めて曖昧な概念である。

だから、「死んじゃダメだよ」とか、「生きてればきっといいことがあるよ」とか、そんな生ぬるい言葉では死に接近した者を振り向かせることは到底できない。
彼らは生への絶望から死ぬのではなく、死という領域を発見したようなものだからだ。


それはどうやら鬱とか希死念慮とか言うそうだ。
人にとっての「死にたい」はまちまちではあるけれども、しかしそれでも、死には少なからず魅力がある

死はいいことか、悪いことか。
最後に、わたしはあえてどちらの立場も取らないでおこう。Yes or Noの議論から一歩引いたところでまとめてみる。

死が悪いことであるという言説は、あくまで社会が規定したことである。
それは動物的な“漠然とした死の恐怖”とは別物である。
先人が創造してきた神話の世界に見られるように死は未知であり魅力的だ。
その魅力に惹かれた者が、自殺するのだ。

本日のまとめ

ところで先ほど、デュルケーム『自殺論』を図書館で予約した。
なんだかわたしに合いそうな考え方だ。社会学をやっているくせに、今まで読んでこなかったのだが。
120年前にタイムスリップしてみよう。
今日は先走って書いてしまったが、また読んでから書き直すのも悪くない。

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