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院進しなくても幸せになれるこの時代に、私は、研究し続けたいのです

2024年4月、noteのプロフィールを更新した。
学部3年生から、学部4年生に変更になった。
入学入社転勤あらゆる人々の環境が変わるであろうこの春、私はたった1文字の編集作業によってのみ肩書きのアップデートを自覚する。

このまま5、6、7と数字を積み重ねていけば、なんと楽なのだろう。

現にこの21年間居心地の良い環境に居座り続け、私の人生は数字の積み重ねそのものであった。
私は小中高大一貫校出身である。実に16年の年月を同じ環境で過ごし、大した将来の夢も持たず挫折経験もせず受験戦争も乗り越えずにぼんやりと年月を消費してきたのである。

そんな私は大学卒業を一年先に控え、無限と錯覚するほどの将来の可能性に興奮と絶望を感じる、典型的な大学4年生になった。
就活、進学、留学と多様な生き方の分岐点である(はずの)現在、悩みを自省を込めて整理する。


中学校

周囲はすでに自分の好きなこと、やりたいことを見つけていた。
この歳になると、趣味はただの子供の気まぐれである「習い事」から脱してくるものである。高校でバレエ学校に進学したり、留学したり、アイドルのオーディションを受けたりと、本格的に自我を持って自身の進路を見定める時期であった。
一方私はなんのやりたいことも趣味も将来の理想もなく、内部進学以外の道はなかった。成績や偏差値の問題ではない。9年間同じ仲間と過ごしてきて、新しい環境に身を置くことへの絶望的な恐怖があったのだ。

習い事は色々とさせてもらっていた覚えがある。
ピアノ、バレエ、プログラミング、習字、英会話…
これらはどれも職業になりうるもので、「プロ」が存在する世界である。高校や大学で一貫校から脱した同級生らはそのプロを目指すのだろうか。

「先生」と呼ばれる人間は、この世に何種類かいる。
教師、政治家、医師、小説家、弁護士…。
対価を払うことで「先生」に教えを乞い、彼らはそれで食べている。その世界でプロとして教える立場にある彼らには到底叶わないけれど、報酬の発生するビジネスであるからこそ教え子や生徒さんという形で成立する関係性とも言える。
そういうことから、私はあくまで消費者で、中途半端な余暇の消費行動に留まっていたのだと思う。とあまりにも両親に申し訳なく、今でも存在価値の忘失で恥ずかしく身悶えする。


繰り返すが私にとって学校生活や義務教育の日々はまさしく1ヶ月、一学期、1年…と淡々と数字を積み重ねるだけのためにあり、その中で出会う興味関心には都度心を踊らせるものの、将来の夢や人生設計ややりたいことなどに出会うことはなかった。
考える必要のないほどの余裕があったとも言えよう。
学費はどれくらいかかっているのか、世界中の同年代はどのような暮らしをしているのか、今物価はどれくらいでどれだけ働けば生きていけるのか…。
生活に纏わる諸々の問題をスルーして生きてきた10年間であった。

両親は小さい頃から毎日のように「自分たちはいつ死ぬかもわからないぞ」と脅迫めいたことを言うが、まさしく当時の私は、いやもしかしたら今でも、親がいなければ生きていくことはできないのであろう。


高校

高校もまた一貫校でそのまま進学。
エスカレーター式というより、エレベーターだろう。
箱の中では登る努力をする必要もないし、ボタンを手軽に押すだけで目的地まで連れて行ってもらえる(何よりその電力源は、両親の経済支援と教育へのアクセシビリティという恵まれた環境に他ならないのだが)。

高1では山中伸弥氏のiPS細胞など再生医療に異常なほど興味を持ち始めた。医学雑誌や論文を読み漁り、山中博士の著作を片っ端から集めた。
小5で大病をした際に抱いた医学への憧れを少しだけ引きずりながら、これが進学先になり“将来”になったらどれだけいいだろうと思う。
初めて抱いた学問なるものへの興味であった。

本気で理系を目指したいと両親に打ち明けたのが高1の冬。
「受かるわけがない」と一蹴された。受験がどれほど大変か何も分かっていなかったし、覚悟がなかったのだろう、と簡単に諦めてしまった。
あれほど抱いた興味が、結局はやはり「趣味」「消費」程度に収まるものなのか、と自分に酷く失望したことを覚えている。

さて一貫校の大学への受験に切り替えたわけであるが、関係学校推薦という形で内部進学することができる。一定基準の成績と卒業論文を以て推薦条件とし、希望学部への人数が多ければ成績順に選ばれるシステムである。
ただし経営学も経済学も文学も社会学も全ておんなじように見えていたし、明確な関心もなかったのでどのテーマでも網羅できそうな観光学を選択。
(当時は明確な志望動機があったはずだが、自身の興味は違う方向性であったと入学後に気がついた)

で、観光学部に無事進学。
卒論や成績はそれなりに頑張った方ではあるものの、ひたすら教育機関の中で生きてきた私の人生はなんだかパッケージ化されているような順調さだった。

「敷かれたレール」に反発する人々の気持ちがよくわかる。
それは人生のコントロール権獲得のための反発ではなく、
自身の無能さ、無力さを自覚することの悍ましいほどの恐怖からくる反発なのだろうと、20年ほど生きてようやく分かってきたところだ。


大学

1年

就活への違和感を持ったままの入学である。
中学高校大学へとぬるりと進学してきた先に、圧倒的に不透明な「就職」が何十年と続くことへの恐怖があった。

人生100年時代だとかなんとか。
終身雇用も到底望めない今、死ぬまで求められる労働は教育機関のようにシステマチックではない。
社会人〇年目の数が多いほど偉いという風潮は根絶しそうだし、フリーターが無職やニートのような批判的意味合いを持たなくなってきているし、つまりは自分という人間が絶対的に安心して縋り付ける組織がない。
その中で何年目とカウントして地位を上げていく手段など滅びた。

(それなのに、皆同じ格好で薄い化粧で取ってつけたような志望理由を捲し立てて企業に品定めをされなくてはならない。日々一生懸命生きているわたしの人生をガクチカという名で括らなくてはならない。講義よりも就活を優先しなければならない)

私を支配していたのは、就活とはなんと気持ちの悪い儀式なのだろう!というひたすらの憎悪であった。

2年

2年になると一気に専門的な講義の選択肢が広がり、ゼミが始まる。
弊学部では1年秋に希望ゼミに応募しレポートや面接を通して所属が決定する。1年の興味の幅なんてあまりにも広く曖昧なはずだが、お得意の嗅覚でなんかおもしろー!と思ったゼミに希望。無事通った。

観光社会学との出会いである。

ゼミでは輪読や任意の発表を通して基礎を学ぶのだが、学問と実生活との接点があることや、社会学にはこれまでの人生で抱えてきた社会への違和感や反発心を受け入れてもらえる懐があることに、えも言われぬ興奮を覚えた。
3年に就活を控えた当時就活への毛嫌いも相まり、「このゼミの時間が卒業後も続けばいいな」と感じたのを覚えている。
ゼミの時間が大好きだったし、こんなにも自分が考えてきたことがフィットする場があったのか!という驚きは人生で感じたことのない感覚であった。


そんなある日、当時のTAの先輩に大学院進学を勧められた。
合っていると思うよ、という上手い言い方でまんまと学問の沼に引き摺り込まれたのだ!

指導教員も上手かった。
「まあ、院進は自分で決めるものですから」とだけ。

今の好奇心がどのように発展していくかは自分次第なのだ、とガツンと言われた気がした。
「学問なんか好きかも…」というふわふわした感情がすっかり消え、自分は学問に合っているんだ、と言葉をどんどん内面化していった。

それでも、私には受験する覚悟も親に反発する勇気もない。
進学を反対される、と謎の確信があり、社会人を数年誤魔化してから進学するしかないのか。と腹を括っていた。

3年

春学期には多く学生は就活をスタートさせ、私も渋々自己分析なんかをするようになった。インターンに精を出す級友をみて病んだりしつつも、どうせ進学は許されないんでしょ、と期待するのをやめていた。

3年の春学期、ゼミではグループで研究を行う。
4ヶ月間毎日24時間研究のことだけを考えていたし、ミーティングは朝の4時5時まで続いた。吐きそうになって命を削って生み出した研究は、結果的に学会で賞をいただけるまでになった。
研究と言える研究をしたのはこれが初めてであった。

もう、無理だと思った。
こんなに面白いものと出会ってしまった以上、人生で学問を回避して生きていくなんてできない!
こんなに楽しい世界をみすみすと見逃せるか!
社会人生活を何年我慢しようと、必ず絶対にこの世界に戻ってくるんだ!
今までで味わったことのないほどの衝動、意欲、モチベーション。

夏休み直前、私はパフォーマンスとして行なっていた就活をパッタリとやめ、両親に院に進学したいことを説得した。
…するとあっけなくOK。
あれほど諦めていた世界を許容されて、なんだか拍子抜けである。
(齧れる脛が目の前に現れた瞬間はいじゃあ院進します、と齧り出す当時の自分もなかなかだが…)


そして現在(4年)

21になってもなお親の経済力に縋っているのかと辟易する。
指導教員は「親の脛は齧れるうちに齧れ」というが、大学や大学院への進学を経済的理由で諦めた友人を何人も知っている。
優秀な彼らを前にして、経済力という他人からもらった武器だけを手にした私は、果たしてその道を進んでいく決断を下しても良いものだろうか。

いずれ研究者として(なれたらいいが)多くの学問や研究者と対峙する時、自身のモチベーションの根源がどこか分からなくなりそうなのだ。進学したくても諦めた人を知っている分、自分の力ではない領域で(お恥ずかしながら)多少恵まれた自分が、軽々と足を踏み入れてもいいのだろうか。
進学の理由は、学問への強烈な興味と、研究して向き合いたいテーマが見つかったからである。いずれ後期課程に進学したいし、アカデミアの世界で生きて行けたらなんていいんだろう…とも思っている。未熟なことを恥ずかしく思う自分と、だからこそ進学するべきだと思う自分がいる。
もしくはこの問い自体が非常に傲慢で思い上がりなんじゃないだろうか。

生きることとしての学問

教授になりたい、就職に有利にしたい、といった明確な目的はない。
ただ研究をすること、考え続けること、学問の世界に身を置くことが人生そのものであり、自分の生き方であると思うからだ。目的や手段としての研究ではなく、今・私が、研究することの喜び。
研究職に就いたり学位を取ったりする行為は結果でしかない。「研究者であること」という状態は院生であれ教授であれ変わらない。

1年次は、就活なんてしてたまるか!という憎悪・反発。
2年次は、なんだか面白い考え方生き方をしてる人たちがいるぞ!この世界好きかも!という発見・好奇心。
3年次は、研究し続けたい!アカデミアの世界で生きていきたい!という欲求。
そして4年になり、執拗に追い続け愛せる学問領域とテーマとの出会い。

貪欲に貪欲に目の前の「好き」を追い続けていくうちに、憎悪や反発は別のものへの興味や関心になり、やがて生き方になっていった。

学会や学術書で見かける「スゴイセンセイ」が対等に議論できる相手として、どんどんと近づいている。それは正式な手順を踏んで正当に研究を進めていることで、戦えるフィールド、自身のディシプリンが明確になっているからなのだと思う。
名刺として手渡せる研究成果が成熟してきている。楽しい。

今は卒業研究に取り組んでいるのだが、学問との出会いで見つけた「生きづらさを受け入れてもらえる懐」を今度は自分が作り出す側に回れているという感覚がある。
正確にはそんな懐なぞ存在せず、研究が示せるのは先行研究の批判と著者の主張と、次の議論へ残す問いなのだろう。だがあの時感じた興奮とは学問が蓄積してきた議論の重さと、社会学という刃物のキレの良さに対する驚きである。
そういうわけで、私のひねくれた性格からくる社会への反発心や生きづらさを「こうも切れるのか!」と発見できたという意味を含めて、懐と言おう。

私が他の社会を研究すると同時に、私も私を含めた社会も研究対象である。行き場のない自身の苦しみが研究対象となる心地よさ+研究する楽しさ。この2つのために、アカデミアにいる・いたい。

飲み会でもベロベロに酔いながら永遠と議論をしている先生先輩方を見て、ああこれこそが生き方としての学問なのだな、と思う。
 

なぜ進学するのか

いくらでも論文は手に入るし講義も聞けるこの時代にわざわざ学費を払ってまで大学院に所属することの意味は、人脈である。

院進しなくても幸せになれるこの時代に、私は、研究し続けたいのです

これは院の先輩に進路相談に乗っていただいた時に、自身の純粋な志望動機を伝えた言葉である。「ゼクシーかよ」と突っ込まれて、ああ確かにそうだなと笑った。
この言葉を、何度も反芻してきた。
「院進しなくても幸せになれる」とは、1つは院進以外にも多様な選択肢がありうるという意味である。学びの継続ではなく就職を選択しても、結婚を選択しても、他にもいくらでも幸せになり得る可能性。
もう1つは、研究を継続することと院進がイコールではないという意味だ。いくらでもネットで論文にアクセスできいくらでも大学の講義に潜ることができるこの時代において、わざわざ学費を払って大学院に通わなくても研究は続けられる。

では、何のために進学するのか?
その鍵こそが、「人脈」なのだと思う。

ビジネスで言われるような“コネクション”とは違う、人と人がその場で出会うからこそ発生する議論や発見に意義がある。
私は観光社会学と名のつく学問を勉強しているが、学会や合同ゼミで異なるディシプリンの研究者に出会って初めて自分の立ち位置を自覚した。

指導教員は「研究は孤独な作業だが、同時に共同作業でもある」という。
自分に向き合える贅沢な時間である一方で、先行研究へのレビューも含めた他の研究者との出会いがなければ自身の立ち位置さえわからない。
現に毎週聞くゼミ生の研究発表はどれも全く異なり、こんなやり方もあるのか、こうも考えられるのか、と非常に勉強になる。

自分は人類学の立場でコメントします、社会学の立場からコメントします、 というふうに、それぞれが「自分はここに立っています」という足場を持っている。これが学際的な研究の意味で、いいところ。だから、勉強になる。社会学や人類学はこうやって見るのかって。

院の先輩にいただいた言葉

学生と指導教員、研究者と研究者といった関係性は月謝を払うことで成立するものとは違う。学費を払ってるから、とかいう言い訳は登場する隙がないほどの、それぞれの研究をかけた研究者同士の対峙があるのだと思う。
 

“雛は初めて見た者を親だと思う”

父は物理学で修士を出ていることもあり、私の院進に積極的な立場をとってくれた。これは、その父がよく言う言葉である。

今まで観光社会学しかやってこなかった私は、学問領域の境界がわからなかった。どうやら所属するゼミは「観光社会学」という学問らしい。だけどどこが「社会学」で、他の学問領域とは何が違うのだろうか。
学問の世界に踏み込んで初めて指導を仰いだ指導教員はまさに雛鳥の親であり、導いてくれる偉大な存在であった。と同時に「観光社会学しか知らない」「先生しか知らない」ことが、ある種視野の狭さという枷になっているとも感じている。 

だからこそ、他の勉強会や学会に出席し外の世界も同時に見る必要がある。
去年は違う研究室の先輩がTAとして指導してくださったのだが、そこで違う学問に出会うことで初めて社会学の見方がわかったものだ。
先ほど大学という場所の醍醐味は人脈であると述べたが、大学や研究室という組織にとらわれず色々な場所で様々な学問と出会うことが大事なのだと思う。

研究者に向いてなかったらどうしよう

私は大学2年で感じた学問へのとてつもない好奇心や研究テーマへの「好き」だけをモチベーションに進学しようとしている。
好きだけで生きていけるわけでは到底ない。今それが許されているのは、学費を払う学生側であるという点も少なからず関係している。

指導教員は、研究の才能やセンスは修士で初めてわかるという。
研究の経験がまだ浅い私には、研究が好きということはわかっても研究に向いているかはわからない。

自分より優秀な人はいくらでもいて、自分がその人たちと同じ環境に立てているのは自分の実力でもなんでもないことを毎日感じる。
私は昔からコンプレックスというか劣等感というか、自己肯定感が極めて低い。超絶ネガティブ人間である。他人のいいところばかり目につき、ひたすら自己嫌悪に浸る。
研究テーマとの孤独な戦いであるはずの研究が、他の学生との戦いのように思えてきてしまって苦しい。
病むたびに「研究者 向いてない」で検索しておんおん泣く。


先日、ついに大学院合格をいただいた。
数字を積み重ねていくだけの学部時代の延長ではない。

研究者の卵、いや受精卵にも及ばないレベル。
猛烈に頭の回転が速いわけでも知識量があるわけでもないが、自分が研究が好きで好きで仕方ないということだけは確信を持てる。唯一の救いだ。


長々と自分史を書き連ねてしまったが、なんだか自分の苦しみがわかってきたような気がする。
学問と向き合うことを手放しで許される学生という立場を、存分に利用してアカデミアに入り浸ってやりたい。

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