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小説「存在しない川」(2016年 文藝賞 最終候補作)



 彼が血液型占いを信じなくなった次の日の朝に半覚醒のまだるっこい気持ちで聞いたのは低俗なコメントが飛び交っているニュース番組での小さな殺人事件の報せだった。東京の、誰でも知っているような大学の教授が中学生になったばかりの実の娘を包丁でめった刺しにし、最終的に死に至らしめた事件は忽ちセンセーショナルな話題として巷を駆け巡った。「ひどい事件です」と番組内で報道している女性アナウンサーをよく見ると、昏い影を落としている真黒な眼窩の向こうがやたらきらきらとしていて、まるで父親の残虐性を愉しんでいるようだった。出演していた批評家は「本当にかわいそうだ」と悲惨さを臨み、父親の家族歴や精神的な既往歴といったあたかも犯行の原因となりうるものを紹介していたけれども、真相はいかに捏ね繰り回しても藪の中で、たまたま大学の休講日に自宅で仰向けに寝転んでいると、天井のLEDの微弱な光が予想以上に眩しくてそんな人工的な光源に怒り狂い、その矛先が実の娘に向けられただけかもしれないし、或いは特殊な性癖の持ち主で、その日劣情的な想像をしながらマスターベーションに耽っていると偶然娘に盗み見られてしまい、おのれのコンプレックスに直面してしまったがために思春期真っ只中の娘に手をかけたのかもしれなかった。結局説明なんてこじつければなんとでも言え、全てを見通せる「神」でもなければ真の因果関係など完璧に解き明かすことができない。テレビ画面を見ている彼が欲しかったのは薄っぺらい出演者のコメントでも父親を凶行に走らせたどのような事由でもなく、ふとした切っ掛けで現実界に炙り出され不気味に出現してきたその事件に対してもはや後戻りできないと悟ってしまった当事者の後悔の叫び声だった。
 彼は寝ぼけ眼のまま郵便ポストに入っている朝刊を取りにいって、一緒に入っている大型家電量販店のチラシ――紙切れの中心には極彩色で描かれた派手な会社名のロゴが配置され、その周りには対蹠的なモノクロの森林風景が映っている――も引き抜いた。「二十四時間修理受け付けます」というコピー文を注意して見ると蟻のような小さなドットが密集していたので何だか気持ち悪くなってしまった。自社を印象付けるためにこのような正気でない奇妙なデザインを施したのだろうかと訝しんだ後、すぐさまそんなことはナンセンスだと思った。しかしこういう風に勘ぐる自分でさえも広告の効果射程に入れて設計されているのかもしれないと思うと彼は丸め込まれたような感じがして、少し苛立ち眩暈がした。
 この数か月のあいだに玄関先の天井に一匹の長脚蜘蛛が巣を張っていて、彼の一六五センチしかない低い身長ではどうしたって天井に手は届かず、この部屋には天井に到達するような長く伸びた物体も存在しないから彼は手をこまねいてその様相を見ているしかなく、将来、徐々に蜘蛛が自らの餌場の域を伸ばしていった結果、彼が背伸びをして捕まえられるほどの高さまで降りてくるのを待つしかなかった。部屋の外から高枝切挾のような道具を持ち込んで処置を施すことはひどく億劫だったので、彼はまさしく蜘蛛にしてやられていたことになる。
 彼はブルーベリージャムを塗った厚切りトーストを食べている途中、昨日の、牛が砂漠に落とした、まるで三日月のように湾曲している角を探している夢を思い出した。夢の中の彼は落ちている砂の一粒一粒すべてに見知らぬ人間の人生が埋め込まれていると悟っていて、ゆえにそれを眺めている自分がどこにもおらず、自分の砂粒を探す為に砂漠という出口のない迷宮をさ迷っていた。とにかく奇妙な夢だったし、自分の境界がどこまでも拡がっていって、最終的には自我というものがぺらぺらに薄くなって消えてしまうような感じがあり、ただ怖くなったのを覚えている。傍らにじっとしていた牛が微かに何か言っていたようだったが、それが言葉だったのか鳴き声だったのか聞き分けることはできなかった。彼が時代遅れで誰もが使っていないような機種の携帯電話を充電器から外した短い間に、そんな僅かな夢の記憶すらも意識外にある流砂に巻き込まれて消えてしまっていた。
 定期購読している犬専門雑誌に掲載された餌の特集記事を彼が読んでいたとき、玄関のドアチャイムが疳高く鳴った。早朝の思いがけない訪問者に驚きながらもたどたどしい脚で駆けつけるとそれは宅配便だった。それが自明のことであるように「判子が欲しい」と求む背の高い若者に対して、彼は早く事を成そうとして自分の苗字が旧字体で彫り込んである印鑑で所定の受取人欄を赤く汚した。急いだためか捺すときに一瞬指が震えて印字がいささかぶれてしまい、彼の名前がひどく読みづらくなった。若者はやや口元を歪めて不服そうな顔を一瞬見せたが、すぐさま誰にでも気づくような作り笑いをして、もうこれで結構というように軽い会釈をして帰った。彼は二メートルほどの平べったい荷物を受けとって、すぐに外に出かけるというのに上下二つに並んでいるサムターン錠のつまみをどちらともひねって締めた。割れ物注意と印刷されている小包に貼付されたカーボン紙には神経質そうな汚い字で彼の名や住所といった個人情報が書かれている。彼がその芥子色の包みを開くとさらに何重にも透明な包装紙や気泡緩衝材が巻かれており、入れ子構造の繭の中から白い布製カバーに覆われた大きな姿見が顕われた。彼はその代物をぴかぴかに磨きあげられているマホガニー製のテーブルの上に慎重に置いてから、まだ寝冷めで冷たくなっている胃袋を温めるのにコーヒーを淹れようと電気ポッドのスイッチを入れた。大きな座面と肘掛を持つロッキングチェアにゆったり座って、外気に触れ不器用になった指をぎこちなく操り、途中だった雑誌の頁を捲った。
 ふと音のする方を見遣ると緋色の絨毯の上をのそのそと歩きながら小さいパンの欠片を食らう一匹のむく犬がいた。この家唯一の同居人、かつ彼のたった一人の家族である中型犬のハチだった。ハチはきっと今年亡くなるのが避けられないほど、そして次の朝にでもその微弱な鼓動が鳴りやんでいてもおかしくないほどの老犬であった。ハチは寝るとき枕にしている凹型の発泡スチロールブロックを足蹴にしながら、天からの授かり物のようにこぼれてくるほんの微量なパンをむさぼっている。毎朝の日課であるこの行為を学習してからというもの、ハチはこの時間になると彼の朝食の食べこぼれを狙って机の下を占領し、自分のテリトリーに入って来る獲物を仕留めようとする肉食動物のように待ち構えている。こぼれ落ちたパン屑は無遠慮に動かされる顎に噛み砕かれたあと、開いた歯の隙間からさらにこぼれ落ちるものも多く、だからますます細かくなって床に散らかすこととなり、狭いワンルーム六畳の床に満遍なく広がるので、あとの掃除が厄介だった。幸せなのか不幸せなのかわからぬそのくちゃくちゃの老いた顔を彼に向け、満足した様子を見せて象を想起させる緩慢な動きでその場を去っていく。動作はやはり老いた人間のそれと似通っていて、時折ふらつく足取りはいつ膝が崩れ落ちても仕方ないほどであった。ハチはもうぼけているのかもしれず、彼はそんなこんにちののろまな一挙手一投足に心を痛めていた。
 二杯のコーヒーを口にしたのち、換気のために窓を開放すると生暖かい風とともにけたたましい救急車のサイレンが入ってきた。この街のどこかで事件が起こっていて、それはニュースで報道していたような至極残酷なものかもしれず、それはもしかしたらこのアパートのどこかの居室なのかもしれない、そう考えると彼はゾッとした。ハチは四つん這いの姿勢になり、その轟々としたサイレンに負けじと精一杯吠えるのだが、ぜえぜえとした掠れきった声しか出ず、虚しい残響が家じゅうに谺するのであった。その声を聞いていると彼は何だか気だるくなってきて、なんとなく外出を憚れた。とはいっても彼はきっとこれからどんなことがあっても、例えば万が一知り合いに死人が出たとしても自分は起床し仕事に出掛けるのだろうと想定しており、それは別に仕事場に好意を持った女性がいるとか、莫大な借金をしていて何とか生活費を稼がないといけない緊迫した生活事情というわけでもない。ましてや彼がワーカホリックであったり、単にあくせく働くのが生きがいだということでも決してない。工場など薄給なのだから全く生活の足しにならないし、いつまで経ってもあんなところに勤めている自分がけして裕福にはならないのは目に見えていて、むしろ仕事を責め苦として感じているのだけれども、彼は自分はどうして働いているのだろうと内省してみると、やっぱり毎日毎時間同じパターンをすることで変化のない堅牢な安心を得たいと思っているからなのである。けれどもそんな日常に馴化しきっている自分をどこか軽蔑しているのも確かで、いつの頃からそんな死んだような生活になったのだろうとふと思い、辛うじて首の皮一枚を繋ぎ止めたあの素晴らしくもみすぼらしい生活は何だったのかとも考えて、もう今ではもはや何のためかわからぬ毎日を送らなければならない自分に嫌気がさしていた。そんなことを気にしているうちにいつのまにかサイレンは遠くに去っており、家の中にはハチの苦しそうな様子だけが残されて、そのシルエットを背に彼は使い古した革鞄を持って家を出た。
 自宅から仕事場に向かう小道にはひとつの川――水質はひどく濁りきっていて、もはや汚泥と化してしまっている――が流れていて、不思議なことに彼はそこを通るたびに惨たらしいその川面を毎朝毎夕の定刻に凝っと見てしまう変わった癖を持っていた。まさしく癖とか習慣としか言いようがなく、本人もどうして自分がこんなにも汚らしく雑然とした川を眺めざるをえないのかと考えるほどだった。川には高さ一〇メートルほどのコンクリート製の橋が架かっており、彼がその上を歩く度に上下左右にぐらついていた。正確にはぐらついている気がするだけで、きっと橋は崩れないような頑丈で強靭な材質で補い支えているはずなのだから揺れて感じるのは彼の気のせいとなる。いやしかし今日だって足首が小刻みに震えるほど軋んでしまっていると感じていて、やはりこれは気のせいなんかじゃないと内心思っている。
 今では両岸とも護岸されているその川は江戸時代中期にはかつて数艘の小さな舟くらいは通れて、内陸の他藩に新鮮な魚介物を運搬するための運河だったが、現在はより利便性の良い別の水路が開通され、まったく役に立たない川になってしまった。それ以来、地元民が抛り投げたゴミが川の内側を充たし、より河口に下れば割れた空き瓶、破れた襤褸服、旧型の電化製品、もしくは街の悪質な企業が棄てたと思われる産廃の不法投棄が見られ、その様相は一層ひどくなるばかりだ。反対に彼は川上の方には行ったことはなく、開発されていない自然の山から上水は流れてきているのできっと綺麗だと推測され、だからいつか行ってみたいとは思っているが半ばそれを見るのが怖くもあった。
 彼はその川を長年「亀川」と呼んでいた。それはこれほどの腐水にも関わらず、天気のいい日には亀が石やプラスチック片の上にわんさかと出てきて甲羅を天日干ししているからだった。鈍く光るその背の甲羅は黒と緑の中間色に苔むしており、表面積の小さい石の上で押し合いへし合い戯れている。かつて今日のような快晴のある日、彼はいつも通り浮き上がっていた群れに炭酸飲料の入っていたアルミ缶を投げつけたことがあった。ほんの遊び心だった。山なりに飛んで一匹の小柄な亀に直撃した。当たった亀はそのまま川に落下して、それに巻き込まれて他の亀はつられて落ちていったり、わなわなとのろく逃げたりしたので青灰色の石塊の上には亀の子一匹いなくなった。それから数分ほど眺めていたが以降まったく亀は水面に浮上してこず、彼は可愛そうだと思った。彼はこの亀川で亀以外の小動物を見たことはなかったが、亀が生きているのならその餌としての生物は生きているはずなのでほかの生態系はなんとか存続しているとは考えていた。しかしまた、それとは並行的に実は亀だけが人間の棄てたゴミ屑の中の人参の蔕とか容器に残ったマヨネーズを食べて生き延びているのだとも考えている。どちらにしても厳しい生存競争に打ち勝ち、この亀川の食物連鎖の頂点に立った亀の生存本能はかなり強力ということになり、おそらく外国種のものだとも予想していた。亀自体の本能的な生命力が強いのか、それともこの川に住んでいる亀が汚水に適応できるように進化していったのかは彼には全く想像できないが、川底に夥しく棲息していると思われる亀たちは今でも生き延びるために更なる繁殖に励んでいるに違いなかった。そうやって亀は瘴気にまみれた地獄の淵の掃き溜めに適応して生きてきたのだ。常に死と表裏一体の状況で何処にも逃げられずしぶとく生きざるをえなかった亀に彼は同情するしかなかった。
 間断なくさざ波が揺蕩い、その微量な振動に彼は覚束なさを感じた。歯を食いしばって身体の芯を固定または保持しなくてはならず、そのためにあちこちの筋肉が強張り緊張するから一歩ずつぎこちない動きで歩かざるをえなかった。欄干に手をかけ細々と歩いている様子はまるでまともに歩けない怪我人が下肢装具を装着してリハビリするようでもあった。小気味よい虫の羽音が耳元でうるさく、よくよく注意してみると小さな藪蚊が彼の頭部を中軸として旋回している。長い翅を持つその虫は一見毒虫ではなさそうだったので無碍に両の手で挟み潰すと、虫の死骸が掌にへばりつき、緑色の粘液と数本の細長い足が付着した。彼は圧縮・粉砕された虫けらを無情にも川に棄てた。彼によって殺められた命はゴミの塊りによってその幅を狭めている水流が浚っていった。
 この時間帯には近くにある公立高校の学生や教師の姿が見られ、そのため橋上の道にはそれなりの交通量がある。受験生だろうか数人の女子学生が片手に単語帳や参考書を持ち、年号の語呂合わせや歴代の皇帝の名を諳んじている。人々は橋の縁に佇み川を凝然と見ている彼の傍らを興味もなさげに通過する。それと同様に人々は亀川にも目もくれず、汚いものは見たくもない、ゆえに見ていないものは存在していないという論理でこの亀川は「存在しない川」と認識していた。ところで人々が都合よく見なかったものはどこに行くのだろう、いったいどこに存在できるのだろうかといつも彼は思っている。きっと人々が無視し続けることによって存在できなくなったものというのは、やむをえず人々がいつかそれを視ざるをえなくなるほどその存在を醜く膨張させる時が来るはずだから、その「存在しない川」のぶくぶくと脹らんだ存在が粛々と復讐しにくるのだと彼は予見し、そんな日をいつまでも夢見ていた。彼はそんなかつて自分が住処としていた橋の下の河川敷を見澄ましていた。

「指の欠片が混ざっていたんだ」

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