「考える」と「感じる」

コーチングを通して自分に自覚的になることが増えた。
でも、まだまだ全然自分のこと分かってないんだろうなって思う。

世界に自分しかいないように見える時、
集中してつらつらと文字にしてる時、
おそらく「感じる」の領域に近い。

「感じる」ことで、はじめて自分の心というものを知る。なんだか不思議な境地に入る。

なんだか、今、自分が何を考えているのかよく分からない。でも、こうして文字にしていく中で分かる気がして。

「感じる」って難しい。生きるって難しいって思った。
何を難しいと思ってるんだろうか。

「難しい」というのは、感じることをしきれていない状態だろう。
自分の中に答えはあるし、望みもある。
しかし、難しく「考えてしまう」。

「感じる」は自分を無双状態にさせる。
没頭させる。
すると、自然に1つの何かが見え、突き進んでいく。
そんな感覚だ。

今こうして言葉にしていくことで感じていることを理解できる。


「考える」状態になるとき、自分は生きていない。
おそらく。
脳みそだけ生きてる。
脳みそを使っている。


なんだか、今ボーッとしている。

生きているということは、心だ。
心臓が拍動し、ハートが宿っているということだ。

物を食べたくなるのも、排泄したくなるのも、
全て心臓、体のコアのコアのコアのところ、
内側が生きているからだ。


感じることで生きてたい。
考えることはその次か。

感じるの先に願いがあり、希望がある。
そこにたどり着いている人ほど、かっこいいのだろう。

自分はこれまで培われてきた思想観念が邪魔をし、
100%「感じる」の状態に入り込むことが非常に難しい。

ときたまに「感動」するとき。
このとき、100%「感じている」。
ふいに涙が出るとき、俺は感じている。

しかし、強くなればなるほど、
「感じる」ではなく「考える」になる。
そのままで生存していては人を支えられないからか。

弱い自分でいていいはずなのに、
弱いことが許されている時と許されない時がある。

自分という個体と社会との狭間で葛藤する。


願いとか、ミッション・ビジョンってきれいすぎると思ってる。誰かが美化してるだけじゃないかと。
そこを信じられていない。

だから、見えそうで見えない。
自己覚知も進んでいるし、多様な経験が蓄積されていても、ハッキリしない。
その分、進んでいない。


自分は多感だと思っていた。
確かに感じていること多いのだろうが、
感じたことを察知すると、脳が理解し、考える。

多感というのは、瞬間的に脳の思考を働き出させる。

感じるというのは反応的である。
心から笑い、泣いてるときなんて
自分でコントロールできない。

感じていることが脳みそ使わず言葉になるとき、
それこそ本物の心からの言葉か。

脳みそを使わずに、自然に整理されているという境地がある気がする。
それを明確に言語化し、視覚化することで、感じていることを理解する?


なんだか、もう、よく分からない。
でも、今綴ったことは「感じている」こと。
整理していくとかは二の次。

だからこのまま出します。

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