未来から過去へ流れる時間
初期仏教の阿毘達磨によると、時間は未来から現在、そして現在から過去に流れるのだという。
水か高いところから低いところに、あるべき場所へ向けてなんの意図もなく流れていくように、わたしの運命が未来のどある地点でふっと湧き出して、それはネットカジノにハマる神の悪戯かもしれないし、あるいは観音さまの慈悲かもしれないのだが、とにかく湧いて、とにかく流れてくる。
それは察するに認識論的な時間感覚の話で、現在の感覚のしかたによって過去も変わりうるという話の延長として捉えることもできるだろう。日日是好日という言葉の意味を、すべては心の持ちようなのだと、乱暴に扱ってしまうように。わたしたちの中にも言葉をうまく切れないが非行少年が目を輝かせている。そんなのはくそくらえだ。
とはいえ、未来から時間が流れるとしたら、それはどう表現されるだろう。たとえばわたしが、ある時点で、深く愛したある男の子と再び出会って、子供が作られるという未来があるとして、その運命は現在に向けてどう流れ込んでくるだろうね。
変分原理の運命論。始点と終点が決まっているとき、阿弥陀様の目から見れば一つの経路は明らかなのかもしれない。導かれるようにわたしは、あのときあなたをひと目見て、好きになって、毎日廊下ですれ違うたびに、胸が焼けるようで。でもその焦がれ方も、毎日あなたからの知らせがないかを見るやり方も。三界の首枷から自由になった仏様から見れば、唯ひとつ、迷いのない道を通っていたのだろう。
うん。あのときたしかに、迷いなんてなかった。