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空っぽを埋め合わせるようにビットの海に潜っても

情報の海、かつてはあれほどキレイだったのに。今やこんなにも濁ってしまっていて、フィルターの泡でもなんでもいいから澄んだ水の中でぬくぬくとしていたいだけなのに。見たいものだけはどうしても見れないように工夫されている。それは内側からも外側からも襲ってくる悲しい衝動だ。ブロックなんてしたくない、見える範囲を閉じたくない。意地でも。何の意地で、何を維持しようとして?

流れに身を任せても自身の中の空っぽを埋め合わせることなてなくて、速すぎる侵食の力に削り取られるだけなのは何度も何度も経験してわかりきっていることなのに、それでも時たま流れてくる砂金のようなアイデア(と錯覚してしまうなにか)に触れた瞬間の高揚感、それを拡散した時の気持ちの落ち着きを忘れることができなくて、要するにこれは依存症だ。

ランダムに餌が排出されるレバーを提示されたマウスやモンキーと同じ状況で、いつまでもいつまでも時間を消費し続けることで精神の中枢を抑え込んでいるだけなのだ。何の薬にもならない、何も得られるものなんてない。それでもただ続けてしまう。射幸心?幸せだったことなんてあっただろうか?

いや、たしかにあったのだ。インターネット老人会に片足突っ込んでいるようで虚しいけれど、つながりが生まれだした当初の混沌は、希望に満ち溢れているように見えた。見知らぬ人をフォローすることは広がりの始まりだったし、何気ないつぶやきに弱い連帯を感じたりしていた。ああ、ここにも、私と同じように、たしかに生きている人がいるのだと。同じ場所にチェックインすることで、くだらなくも大切な一体感を覚えたりした。

いつの間にやら彼らは消えてしまった。残ったものもひっそりとしている。私は相変わらず、本当にくだらない日常を垂れ流している。一方で起業家崩れや、物知り顔のビジネスマンが実名で140字の限界で、使い古されたものか自分のオリジナルなんだかわからない言説を叩きつけている。ヒップホップのボースティングともまた違う、自尊心のかけらもない自己主張。きらめきのない言葉たち。それを浮上させるハートの数々、ハートのどこにも、血なんて通っていないように見えるから。

それでもまだ、ビットの海は魅力的なのだ。良すぎたのだ。注意散漫でも、日常を食い荒らされても、止めることができない潜水。だってもう何年もここに住み付けているのだから、確かにここは、生活世界の一部なのだから。何もなくなるまで浸されよう。いつか透明になろう。日常と共に。


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