エッセイ:北枕とデストルドーについて
最近、枕の向きを北から南へと変えたからなのか、自分のなかの呪いがどんどん氷解していっている。自分のなかの呪いが解けていっているから、枕の位置を無意識的に変えたのかもしれないが。(コンパスで調べてみたら、正確には北ではなく北北西、南ではなく南南東だったが)
その、自分のなかの呪いとは、完全主義である。
一応言い添えておきますが、完全主義とは、なんでも完全にできる人のことではなく、なんでも完全でなくては気が済まない人のことである。だから、全く何も手をつけないというのも、一種の完全主義なのである。たとえば、部屋の掃除を一切せずに、家がゴミ屋敷と化してしまったりもする。「完全にできないのであれば、何もしないのと同じだ!」という理屈である。白黒二極思考で、グレー・ゾーンが存在しない。1と100しかないのだ。
話を戻して、北枕で今までずっと眠っていたことと、私のなかの完全主義には、何か符合があるようにも思えた。先にも述べたように、北枕で眠ることをやめたのと、自分のなかの完全主義が氷解していくタイミングとがほぼ同じだったからだ。そして、この両者には、死の概念が付されているから。
北枕とは、一般には縁起が悪いとされている。葬儀の際、死者の頭を北へと向けるからだ(部屋の都合で北へ向けられないときは、西へと向ける)。その由来は、仏陀が入滅の際に、頭を北に、顔を西に向けていたことらしい。
一方、完全主義とは、一種のデストルドーなのだと、私は解釈している。デストルドーとは、死への欲動である。あるいは破壊衝動である。リビドーの対となる概念だ。
なぜ、完全主義がデストルドーなのだと捉えているのかといえば、完全主義者は究極的には無へと向かうと考えているからだ。本当に完全無欠なものとは無だからだ。どんなに完全なものでも形があればいつかは損なわれたり、失われたりするから。無には、その可能性すらない。
これは私自身の経験からもそう思うのだ。私の完全主義がピークに達していたころ、私は一文無しでアパートの部屋を出て、ホームレスを始めた。そして最後には自殺するつもりだった。
ちなみにこの頃から、自分の考え方はおかしいんじゃないか?とようやく気づき始めた。ホームレスになり、あとは死ぬだけという段階にまで至らなければ、そのことに気づくことができなかったのだ。
したがって、枕の向きを変えたのと、自分のなかの呪い――完全主義が氷解しつつあることには関係があるのではないかと思ったのだ。死の領域から生の領域、あるいはマイナスからプラスへと、座標軸を越えたタイミングだったのだろう。
ちなみになぜ、自分のなかの完全主義が消えつつあるのかといえば、森田療法の本を読み始めたからである。今までにも、森田療法の本は何冊か読んではいたが、最近手に取ったその本の内容が自分にはとてもしっくりときたのだ。
それから、カフェインを絶ったことも要因かもしれない。カフェインレス・コーヒーは飲んではいるけれども。スーパーやドラッグストアに置いてある、半端にカフェインの入っているそれよりも、西松屋のほぼそれが入っていないカフェインレス・コーヒーのほうがいい。
また何かの拍子に、それが戻ってくるのではないかと怯えながら、ここ最近は暮らしている。経験上、揺り戻しみたいな現象が起きてくる筈だからだ。一種のネズミ返しである。
余談だけれど、私の住むアパートの部屋の北側には、部屋がゴミ屋敷化している、独身男性が住んでおり、南側には、新築の一軒家に、最近可愛らしい赤ちゃんの生まれたご夫婦が暮らしている。この二つの対照的な状況も、どこか象徴的だと思えてならない。