(聖) 神様にもピンチはあった、ピンチの切り抜け方 (聖書の学び 6)
ルカによる福音書の第4章にあった興味深い神様の振るまい。ナザレという町で、安息日の今日も元気に聖書の朗読しようとしたイエス様、なんやかんやあって、町民が怒ってしまい、街の外れの崖まで連れて行かれて、崖から突き落とされそうになるというピンチに陥ってしまった模様。
が、イエス様は人々の間をすり抜けて脱出。ポイントは「すり抜けて脱出」にあると思うのだ。
ピンチや困難に真正面からぶつかっていませんか?
確かに正攻法であるので、これも一つの手段だと思う。だが、とりあえず出てきた聖書の中の神様のピンチの切り抜け方と一つとしては、「すり抜けて脱出」が書かれていた。
ボクシングで例えて考えてみる。
相手のパンチを顔にもらわないためには、
1.ガードする
2.かわす
3.パリーする(いなす)
ガードは、間接的には体で攻撃を受けることになる。致命傷を避けられるが、ダメージは蓄積する。亀の子作戦でしのぐことは可能だが。
かわす。まるでタイガーステップを踏むが如く、華麗に舞う。だが、体力と集中量を大きく消耗する。そして、かわしきれなければモロにヒットする。体力・気力のある序盤戦でしか使えないだろう。
パリーするというのは、相手のパンチに合わせて自分のグローブを相手のグローブに当てることで、相手のパンチの軌道を変えてしまうという戦法。相手からのジャブをパリーして相手のリズムを崩すシーンなどよく見受けられる。
これならば、パンチのパワーの一部しか受けないし、致命打ももらわない。ただし、相手の出方に合わせることができるだけの技量が必要になる。しかしながら、パンチをもらっているように見せて試合の流れの主導権を握ることができる高等技術。相手も疲れるし。一見するとパンチをもらいながら、実は相手を制御するというとても難しいテクだ。ただし、やり過ぎるとばれて逆にフェイントからのカウンターをもらうリスクもある。
聖書の「すり抜け」はパリーに近いのかな?
町民をロジックでねじ伏せて説得したわけではないので、ガード戦法ではないな。かといって、スタコラサッサと逃亡したわけでもないので、かわす戦法でもない。
相手のロジックに乗りつつも、最後の最後でピューンと華麗に脱出。相手の悪意を全面的に受けることなく、まさにパリーの省エネ戦法でピンチを切り抜けたと言える。
ピンチ脱出の一手目には「すり抜け」を考えるのが最も良いのかもしれない
一般論的過ぎてなんとも言えないが、いつも正面突破のアプローチ方法よりも、まずはすり抜けを考えてみた方がいいってことかな?それでも根本的に解決しないなら、次の手を考えるとか?少なくとも、次の手を考え出すまでの時間くらいは稼げそうだ。
私の以前の神様像
神はいつも正攻法で堂々と正面突破して、唖然とする周囲の人を尻目に、堂々と笑いながら道の真ん中を闊歩するという物だった。確かにヒーローっぽいし、カッコいい。
だが、聖書の教えとして書かれていたことは、「すり抜けて脱出」だったのだ。う~ん、現実的。意外とせこいぞ(笑)だが、そこに真実があるような気がする。ピンチの切り抜けには省エネで対処が最も望ましいってことな気がしたのね。神様の振る舞いなので、正しい選択肢の1つであることには間違いない。
あ、この考え、以前のnoteで書いた「神様は戦略を取る」に通じるな。神様はピンチを戦略的に乗り越えた、すり抜け戦法により。
ここに来て思ったことは、
神様を信じるだけではなく、神様から学ぶことが重要
ってことを改めて感じた。聖書を読書するだけでなく、神の存在を盲信して祈るだけでなく、さらに「学ぶ」姿勢。これがないと薄っぺらくなってしまう気がした。
というわけで、今日の学びは「困難に対してはまずはすり抜けを考える。省エネ戦法で回避する。必要ならば、次の一手を考える」ということで終了(笑)
(144回目のnote更新)
(カテゴリ:聖書)