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血統を、思い出のカメラとともに継ぐ

私は、30代になるまで「カメラ」というものに関心を寄せていなかった。


別段、カメラ自体そのものと無縁の世界におかれていたわけではない。私が幼少の頃には、キャノン製のフィルムカメラを愛用していた父に、様々な姿をよく撮影されていたものである。

しかしながら歳を重ねていくにつれ、レンズ越しに写し出された自分の姿が一枚の写真として残されていくことを、いつしか嫌うようになっていたのだ。おそらくその頃から、私には羞恥心が芽生えていたのかもしれない。

特に小学生だった自分ときたら、記憶の淵に一生閉じ込めてしまいたいほど、どこから誰がどう見ても醜い体格をしていた。誰よりも「うつす価値なし」というレッテルを自ら率先して貼るという、そのぐらいの自覚は持っていたつもりである。

そんな醜態を収められてたまるものかと言わんばかりに、いざレンズを向けられると、条件反射で避ける癖が付いてしまったものであった。今だからこそ一つの笑い話として話せるが、当時の私は私自身が嫌いでたまらないと思い続けていた。


そしてカメラを扱うことにおいても、昔からあまり良い思い出というのは持ち合わせていない。時折、家族旅行で出かけた際、両親の姿を撮影することを任されることがあった。

だが、まだ思春期なりたての頃でさえ重たいと感じるカメラを持ちながら、焦点がブレないようにうまく撮影するには難易度が高い。ほとんどの確率で姿が見切れてしまい、そのたびに親からよく笑われてしまったものである。

結果として「うつされる側」のみならず「うつす側」でも苦い思い出を持ってしまった私は、カメラについて関心を持たなくなっていったのであった。とはいえ、カメラそのものに対して疎遠になることはまずなかった。

一般で扱われているコンデジや一眼レフ、それにミラーレスなどといった立派な代物に直接触れることはなくとも、携帯やスマホに内蔵されたカメラのおかげで、重大なトラウマに陥らず(?)なんとか保ってきた。


ただ、人物や風景などの写真を撮ることはほとんどしていない。その場で書き記せないから、忘れないようにするためのメモ代わりに撮影するという、最低限の役割しか担わせていない。

ゆえにスマホのカメラ自体も年々、デジカメ等と比べても遜色ないほどに性能が上がり続けている。わざわざ実機を持たずとも、スマホ一台さえあれば大抵は事足りてきている。


そうして30代を迎えた翌年の正月明けに、私は一眼レフカメラを手に取っていた。


とりわけ、何かの用途を持って欲しいだとか使いたいという、決定的な目的があったわけではない。ましてや、誰かに影響されて購入意欲が増していったということでもない。

それよりも、カメラの性能とか画質がどうとかまったく興味を示しておらず、専門的な知識においても皆無であった。そんな状態の中で、かつて父は「キャノン製のカメラを所持していた」という記憶だけが頼りであった。

それでもって、今のうちに手にしておかないと、いつか後悔することになるかもしれない。そう云ったアテもへったくれもない根拠が、購入する意欲を掻き立てたのだろう。第三者からすれば、十分におかしな話だと解釈してもおかしくはない。

自分でもイカれた話だと、今更になってそう思う。これまでカメラ…もとい写真嫌いだった自分が、なぜこの局面で、それも高価の有るカメラに手を出そうとしたのか。今でもよく憶えていない…というかよく考えていない。

もしかしたら、自分の半生で失ってしまったトキメキを、ここから取り戻そうとしているのかもしれない。あるいは、新しい何かを築きはじめようとしているのか。


いずれにせよ、今私が所持しているカメラは、購入からすでに二年以上経過している。時々、外に持ち出して撮影する機会を少しずつ増やすようになったところで、過去に父がどんなカメラを愛用していたかを探るべく、一つの記録として収めた次第である。




最後までお読みいただきありがとうございました。 またお会いできる日を楽しみにしています!