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一度割れてしまった「愛」
最後に異性の人に告白したのはいつのことだろう…。
気づけば少なくとも10年以上、人に対して愛を伝えてきていない。そもそも論として、愛について伝え方や受け方自体を忘れてしまっている。
20代前半の頃には、友人もしくは同僚だった人からよく紹介されることがあり、あわよくば告白されるなんてこともあった。
けれど私は「今は仕事に専念したいので」といった文言を付けて丁重に断り続け、人と付き合うことを頑なに拒んでいた。
「折角の良い機会なのになんで断っちゃうのさ!」と当然反発されることもあったが、そのたびに私は茶を濁すようにしてあっけらかんとするのだった。
その裏で私は誰かと付き合い始めたとして、その時よりも少し先に待つ未来の予想図を密かに悟っていたのかもしれない。
どれだけ長い時間をかけて一つ一つ丁寧に思い出を作ろうとしても、やがて時が止まる頃には全て塵と化して消え去ってしまうのだと。それらは良いも悪いも関係なく。
一度割ってしまった硝子は二度と元に戻らない。なんとか復元を試みようとしたところで、生じてしまったヒビのような傷は一生治ることはない。
新しい物に替えるのは容易である。しかしそれを取り替えるまで決断するには時間がかかってしまう。かといって割れてしまった物をそのまま使おうとは、余程のことがない限り誰しも思わないだろう。
それよりも常に変化を追い求める大衆は、見栄えの悪い物を前に興味を示したり寄り付こうとするはずがない。
歳を重ねるにつれて、友人も同僚だった人も知り合いも結婚しては子供を産んで祝福され、温かい家庭を築き上げてきている。
一方で私はこれまでの半生を愚行に費やしながら、誰もが触れるであろう愛を避けてきたまま、今も独り弓形のような孤を描いている。
気づけば誰かと一緒に居る時間よりも、独りで過ごす時間を多く過ごしてきてしまった。人一倍不器用であると自己暗示してきたこともあり、慎重さを通り越して臆病になってしまったと、今更になってそう後ろめたくなってしまうのだ。
もしも誰かに告白されたとしても期待に応えられる確信はないし、自ら勇気を出して伝えるなんてもってのほかだ。
私はこれまで歩んできた道を振り返ってみて、後悔していないわけではない。思い返すと「たられば」の要素が至る所に散りばめられているはずだ。
そしてこの先も愛について話すこともできなければ、一歩前に踏み出すことができなかったことを「恥の多かった生涯」なるものとして悔やむことになるだろう。
それでも今は…今も愛が欲しいとは思わない。このまま愛が何なのかわからなくなってしまったとしても、自分を動かす命さえあればいい。
私にとっての「愛」は…いつどこで割れてしまったのだろうか。
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